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商品開発部長と口紅

「社長は出張中なんですか? 知りませんでした」


 ユージュ商品開発部長は興味もなさそうに言って、書類の綴りを捲った。


「お手間を取らせましたね。うちのスタッフは事務作業が不得手で。誰か優秀な担当者を寄越してもらいたいくらい――ナタレ君、あなたどう?」


 俺が慌てて首を振ると、部長は小作りな口元に薄い笑みを刷いた。冗談だったらしい。


 彼女はいつも黒縁の眼鏡をかけ、普段着のようなTシャツとデニム姿に白衣を羽織っている。化粧品の開発責任者でありながら、整った顔にはまったく化粧っ気がなかった。顎のラインで短く切った髪といい、ほっそりとした身体つきといい、少女を通り越して少年のような印象すら受ける。実際に年齢は相当若いのだろう。


 部長は俺を連れて地下の廊下を歩き、執務室へ向かった。

 白い壁に白い床――病院のような印象のフロアだ。擦れ違う研究スタッフも、みな部長と同じく白衣を身に着けている。

 壁がガラス張りになっている場所があって、そこから奥にある部屋の様子が窺えた。よく分からない機材やモニターの並んだ広いスペースで、白衣にキャップと手袋まで着けた人間が働いている。顕微鏡のようなものを覗いたり、並んだ試験管の前で薬液らしきを調合したり、それぞれ自分の仕事に没頭しているようだ。


 ここがユージュ商品開発部長のラボか。化粧品業界に衝撃を与えながら、その製造法は未だ門外不出のアルハ・シリーズを開発した――。


「今はね、男性向け基礎化粧品のラインを開発しているんですよ」


 部長は書類を脇に挟み、両手を白衣のポケットに突っ込んで説明した。


「セファイド社長は絶対売れるって言うんですが、まったく、そんなに綺麗になりたいものなんですかね、男の人が」

「まあ……人によるんじゃないでしょうか」

「ナタレ君は手入れしなくても十分綺麗ですよ。若いし」


 褒められたのか、それともこれも冗談か。部長の感情表現は薄すぎてよく分からない。どこか人形のような、硬質な印象を抱かせる女性だった。


 俺はこの人が社長の愛人なんじゃないかと疑っていた。


 ユージュ部長とそのチームは、薬学部の学生だった頃、すでにアルハ・シリーズの基礎となる研究成果を出していた。その論文にいち早く目をつけた現社長が彼らをスカウトし、会社がスポンサーになって研究を続けさせて、商品化に漕ぎ着けたのだ。卒業後は商品開発部の中枢として彼らを丸ごと雇い入れた。

 部長は会社の隆盛の立役者――社長とは浅からぬ縁と絆で結ばれているはすだ。そして風変りではあるが美人なのである。


 彼女は子会社の重役であるにもかかわらず、あまり表舞台に出ることはない。『地下』に籠って研究を続けることがよほど性に合っているらしく、その姿はほとんど見られない。ここに住んでいるという噂もあるくらいだ。社長とデキているとしても、明るみに出ないのではないか。


 執務室に入ると、部長は書類をデスクの上に放り投げて、抽斗ひきだしをごそごそと探した。


「……どこに押せばいいんですか?」

「あ、その付箋の部分です」

「本当だ、押印漏れ。チェックしたのは……カイか。つくづく専門以外では使えない男ね」


 彼女は部下のことをさらりと罵って、指定の場所に承認印を押してくれた。

 俺は書類を受け取って、用は済んでしまった。このままでは何も話が聞けないうちに出て行かなければならない。俺は二、三度咳払いをした。


「え、ええと、社長は今ドバイに出張中なんですよ。向こうに支社を作って販売網を広げるおつもりらしく」

「へえ、まだ稼ぐんですね、あの人は。そのおかげで私たちは好きな研究ができてるわけだから、感謝すべきなんでしょうけど」


 部長は眼鏡のフレームを鼻の上に押し上げて、素っ気なく言い捨てた。恋人のことを語る口調とは、まったく思えない。おかしいぞ、と俺は顎を掻いた。


「社長は『地下』……いえ、商品開発部によくいらっしゃるんですか?」

「ええ、たまに様子を見に来ます。試作品を試したり、あとはここで何だかくだらない世間話をして帰ったり。意外と暇なのかも」

「ユージュ部長は社長と長いお付き合いなんでしょう? プライベートでもご交流があったりするんですか?」


 わざと野次馬的に訊いてみたら、部長は小さく息をついてデスクの端に腰掛けた。


「そんなこと訊いてどうするんです? ナタレ君」

「いや、別に、単なる個人的な興味です」

「何の興味か知りませんけど、私と社長はあなたの想像しているような関係ではありませんよ。あの人は私にとって、ただの困ったオジサンです」


 俺の疑惑など見透かされていたようで、部長は何の後ろめたさもなく答える。


「あの人が愛人だか恋人だかに贈るものを、特注でオーダーされたことは何度もありますがね。オリジナルの美容クリームとか口紅とか、女性は釣られるでしょ? ああそれから、絶対に失敗しない避妊具、とかですね。あれは本人用だったのかな?」

「そ、そうなんですか……」


 最低だ、あの男。完全に開発チームの私物化だと思う。コンプライアンス窓口に通報してやろうか。

 呆れと怒りが顔に出てしまったのか、部長は俺を見て少し笑った。笑ったようだった。


「でもね、子会社を含めて自社の女性社員には手を出していないみたいですよ。別れ話がこじれた時に、セクハラだ何だと訴えられるリスクがあるからでしょうね。その判断は賢いと思います」

「はあ、本当に悪知恵だけは働く……いえ、あの」

「このくらい話せば満足? ナタレ君、あまり大人の事情に首を突っ込まない方が身のためですよ」


 彼女は白衣のポケットから何かを取り出して、俺に差し出した。人差指くらいの長さの銀色に輝くそれは、どう見ても口紅である。


「お土産にこれあげます。新色の試作品。彼女にどうぞ」

「彼女って……」

「それとも避妊具の方がよかった?」

「おっ、俺彼女いませんから」


 俺は焦って首を振った。部長はそんな否定など意に介さず、俺の上着の胸ポケットに口紅を入れた。


「いいからいいから、この色、彼女に似合いますよ」


 ハッタリだ、こんなの。ずっとラボに籠ってるこの人が、俺とリリンスのことを知っているはずがない。

 しかし理知的に澄んだ瞳からは感情が読み取り辛く、不気味ですらあった。本当に何もかも見通されているようで……それともあれか? 俺もシャルナグ専務と同じで、バレていないつもりで本心がダダ漏れになっているのか?


「じゃあ、私はラボの方へ行かなくてはならないので」

「あ、ありがとうございました。失礼いたします」


 俺は頭を下げて、逃げるように執務室を出た。何だか物凄く敗北感を感じていた。


 この会社の重役は癖のある人間ばかりで、できれば関わりたくない。

 今さらながらなぜあんな依頼を受けてしまったのか、俺は自分の浅慮を呪った。





 社内の女性社員には手を出していない――ユージュ部長の言葉を全面的に信じるわけではないが、それは本当かもしれなかった。事実、これまで社長と浮名を流した女の中に社員はいない。あの男のマイルールか。

 だとすれば相手から探るのは難しそうだった。水曜日、役員食事会の後を狙うしかないだろう。

 社長が帰国するのが週明けの月曜日、俺はその動きを待つことにした。

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