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専務と高級クラブ

「あいつとここのママが恋人だったかって? それはないない」


 シャルナグ取締役専務は豪快に笑って水割りのグラスを傾けた。頬髯に覆われた強面が人懐っこく崩れる。

 彼はもう三杯、同じものを飲み干しているが、まったく酔った気配はなかった。大柄で厳つい外見を裏切らない酒豪なのである。

 俺はといえば、ウーロン茶をちびちびと飲んでいる。造り酒屋の息子が下戸だとは情けないが、体質だから仕方がない。


「でも社長とママさんは古いお付き合いのようですし、てっきりそういうご関係だったのかと」

「違うよ、ただの友達だ。私も含めてな」


 専務はなぜだかちょっとだけ寂しそうに言った。

 ソファ席に座った俺と専務の両隣りには、それぞれドレス姿のホステスが座り、次の水割りとウーロン茶を作りながらにこやかに微笑んでいる。決して騒がしく会話に割り込んだりはしない。少し控えめなサービスがしっくりと嵌っていて、こういう場所に不慣れな俺でも緊張せずにすんでいた。


 都心の繁華街の一等地にある『クレセント・ムーン』――いわゆるキャバクラではなく、高級クラブである。会社の接待によく使っている店で、社長や専務はプライベートでもよく飲みにきているらしい。

 俺はどういうわけか専務に気に入られて、たまにこうやって連れて来られる。社会勉強だと専務は言うが、酒の苦手な俺は遠慮することが多かった。だが今夜は社長の女性関係について話が聞けるかもと、素直に同行した。社長と専務は昔からの友人なのだ。


 アンティークのシャンデリアの柔らかな照明の下、落ち着いた色合いのカーペットが敷き詰められ、木目の美しいテーブルとソファが十席ほどゆったりと配置されている。けばけばしくないインテリアは趣味がいいと思う。女性スタッフもみな美人で上品だ。こんな店、自分の財布の金ではとても来られそうにない。

 フロアの中央は一段高くなっていて、グランドピアノが置かれていた。若い女性ピアニストが気だるげなメロディを奏でている。


「いらっしゃいませ。お二人さん、また会社の経費で飲んでるの?」


 明るい声がして、件のママが顔を見せた。褐色の肌、細かなウェーブのかかった髪、きりりと整った顔立ち――エキゾチックな美貌の持ち主は、この店の店主キルケである。

 専務は急に酔いが回ってきたみたいに顔を赤くした。でもその表情は実に嬉しそうだ。

 数年前に奥さんと死別した彼が、今はこの女性に熱を上げているという噂は結構広く知られている。気取られていないと思っているのは専務本人だけなのだ。


 ママが目配せすると、俺たちに付いていた二人のホステスは静かに退席し、代わってママが専務の隣に座った。


「何のお話かしら? とっても楽しそう」

「いや……このナタレがな、あなたがセファイドの恋人だったのではないかと言って」

「まあ、それが本当なら嬉しいのに! 私あの人にフラれちゃったのよ」


 ママは屈託なくころころと笑う。緑色のドレスは胸元が大きく開いていて、豊かな膨らみと谷間が否応なく目に入ってくる。下品な感じがしないのは、彼女の持つさっぱりとした雰囲気のせいだろう。

 専務が酒を勧め、ママは礼を言ってから自分用に水割りを作った。ごく薄い配合である。ある理由から、彼女は店であまりアルコールを口にしない。


「どんなに誘っても、あの人ぜんっぜんなびかないの。もういい加減諦めたわ。あの人が愛してるのは、この店と私の歌だけなんですって。キザよねえ」

「あ、ええと、このお店って確か社長が……」

「そう、融資してくれたおかげでオープンできたのよ。利子も含めてちゃんと毎月返済してるけどね。その辺はあの人凄くシビアよ。身体で返した方がよっぽど楽」

「セファイドも昔、音楽をやっていたんだ」


 専務が口を挟んだ。


「一時は本気でプロを目指していたらしい。チェロだったかな。だがあいつは金儲けの才能の方に恵まれてて……音楽の女神にはそっぽを向かれたのさ。だからママのような人に歌う場所を提供したかったんじゃないか」


 初めて聞く話に、俺は驚いた。確かに社長は、無味乾燥な経営学だけでなく芸術の分野にも明るいらしいが、それはあくまでも鑑賞者の立場だと思っていた。プロのチェリストを目指していたなど、想像もできない。


「ママ、あんな自己中男やめとけやめとけ。たとえ付き合ったって泣かされるだけだぞ」

「あら、じゃあ、シャルナグ専務なら幸せにしてくれるんですか?」

「そ……そそそれはもちろん。私は……私はだな……前からあなたが……」


 上ずった声でどもりまくる専務を、俺は呆れて眺めた。まったく見ていられない。部下を怒鳴りつける時の迫力が嘘のようだ。

 専務の告白を待たずに、ママは笑みを浮かべたまま立ち上がった。うなじに手をやる仕草が何ともなまめかしい。


「ちょっと行ってきますね」


 そう言ってフロア中央のピアノに歩み寄る。男性スタッフがマイクスタンドを用意する間、彼女はピアニストと一言、二言、言葉を交わした。

 店内の座席を埋めていた客たちの注目が集まり、ママがマイクの前に立つと拍手が湧いた。みな、よく知っているのだ。


 やがてピアノの伴奏に合わせて、ママはゆったりと歌い始めた。

 低く艶やかで、伸びのある声――ジャズだと思うが曲名は分からない。ただその不思議な存在感のある声は、いつ聞いても素直に見事だと感じる。耳元をくすぐられる地よい低音から、身体がふわりと浮きあがるような自然な高音まで、彼女は実に魅力的に歌った。


 この人の素性はよく分からない――ただ、社長が資金援助した事実もあり、付き合っていてもおかしくないと思ったのだが、今の話を信じる限りは違っていたようだ。まあ彼女と社長が親しいのは秘密でも何でもないから、この期に及んでこそこそとはしないだろう。


 ただの友達なのか――奇妙な関係ではあるけれど。

 身を乗り出してママの歌声に聴き入る専務の隣で、俺は溜息をついた。





 翌日、俺は秘書室次長から『地下』の商品開発部長宛ての書類を受け取った。

 エンバス室長が社長の海外出張に同行している間、秘書室管理を代行してる次長は、困った顔で俺に分厚い書類の綴りを差し出した。


「ナタレ、この付箋がついている部分に部長の承認印をもらってきてくれないか」

「はい……これ、社長の決裁待ちの稟議ですよね?」

「そうなんだよ。来週の役員会に間に合わせないといけないんだが、部長印が漏れている所が一箇所あってな……まったく、『地下』の事務方はザルで困る」


 仕事の精密さでは定評のある次長は、眉をひそめてぼやいた。


 『地下』とは、文字通りこのオドナスホールディングス本社ビルの地下フロアのことだ。そこにあるのは、子会社であるオドナス・コスメティックの商品開発部なのだった。


 現社長が事業内容を広げて持株会社を立ち上げた時、前身のオドナス・コスメティックは子会社となって所在地が別れた。しかし商品開発部のラボだけは、この新社屋の地下に残されたのである。

 理由は簡単、そこで開発されているアルハ・シリーズの企業秘密を外に漏らさないためだ。

 社長の心情として、会社の発展の源になった貴重な技術を自分の目の届く所へ置いておきたかったのだろう。


 俺にとっては都合がよかった。『地下』にもまた社長の愛人候補がいるのだから。

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