社長夫人と依頼
Web拍手お礼用オマケ小説をリニューアルしたことにより、旧作をこちらに掲載しました。すでに読んで下さった方も多いと思いますが、どうぞ気楽にお楽しみ下さい!
「あなたにお願いがあります。夫の浮気現場を押さえてちょうだい」
社長夫人タルーシアは俺にそう告げて、艶然と微笑んだ。
当然、俺は面食らった。
彼女の夫、つまりセファイド社長のプライベートを探って、あまつさえ浮気現場を押さえるなど、俺の仕事ではない。そんなもの、興信所にでも依頼すればいいのに。
社長の出張中、取締役副社長でもある夫人に呼び出され、役員室に入った途端にこれだ。
嫌な予感はしていたのだ。ここの一族は、他人はみな自分たちのために働いて当然と思っている節がある。
困惑する俺の前で、執務机の向こうに座った夫人はゆったりと足を組み変えた。タイトスカートから形のいい脛が覗いて、俺はドキリとした。
「分かっているわ。これは本来あなたの仕事の範疇ではないわね。ですから正式な業務命令ではありません。私の個人的な依頼です」
「失礼ですが、社長の女性関係については、その、今さらでは?」
入社間もない俺ですら知っているほど、社長の女遊びは派手だった。特定の相手と長く続くことはないらしく、短期間で相手は変わる。下手をすると常に二、三人被っているんじゃないだろうか。
「今度の相手はいつもと違うようなの。浮気……じゃないのかもしれません」
夫人は綺麗に整えた爪で唇をなぞりながら、遠くを見る目をした。女の勘という奴か。俺は首を振った。
「そういったご依頼は、お受け致しかねます。おれ、いや、私の上司は社長ですので」
「あなたが娘と会っているのは知っているのよ、こそこそと」
「げ」
思わず声が出て、慌てて口を塞いだが遅かった。夫人は華やかな美貌を冷たく引き締める。
「夫に話せば即クビになるでしょうね。ご実家の会社もどうなることやら」
「おっ、脅すおつもりですか?」
「大事な娘のことですもの、内緒にしておくわけにはいかないわ。でも、あなたが私に協力するのなら、黙っていてあげてもよくってよ」
彼女はデスクに肘をついて、ぐっと身を乗り出した。丁寧ではあるが自然な感じに仕上げたメイクが、滑らかな肌をさらに若々しく見せている。使っているのは当然、自社製品なのだろう。
「それに、ここで私に貸しを作っておけば、あなたの将来にとって損にはならないでしょう?」
「奥様に貸しを作っても、社長に睨まれたら意味がありませんけど」
「バレないようにやればいいんです。大丈夫、新人秘書のあなたなら夫もそれほど気にしていない。きっと隙を突けます」
隙って何なのだ。あの男に隙なんてあるのか?
俺がなおも渋っていると、夫人は焦れたように立ち上がり、いきなり俺のネクタイを引っ張った。
「やるの!? やらないの!?」
「や……やります」
「よろしい。言っておきますが、半端な証拠は認めませんよ。あの男が女とベッドにいるところをカメラに収めていらっしゃい」
夫人は冷酷にそう言い放った。
株式会社オドナスホールディングスは、ここ数年で急成長を遂げた企業グループである。
もとはオドナス・コスメティックという小さな化粧品会社だったのだが、現社長に代替わりしてから画期的なスキンケア商品『アルハ・シリーズ』を発表し、口コミで広まったそれが世の女性たちの支持を受けた。売上は倍々ペースで伸び続けて、あっという間に株式上場。やり手の社長は事業を拡大し、日用雑貨から食品、医薬品の製造販売にまで手を延ばして、その業界の企業を次々と吸収合併した。今や年商二千億円に迫る勢いだ。
かく言う俺の実家『ロタセイ酒造』も、そんな会社のひとつだった。
もとは東北にある老舗の造り酒屋。固定客がついていて経営は順調だったところへ、俺の兄がネット通販を始めた。それなりに売れて気をよくした兄は社長である父をけしかけて、大幅な設備投資をした。で、結果、それが回収しきれずに倒産寸前――そこにオドナスの食品部門が救いの手を差し伸べた。うちで製造する酒は通好みのブランドとして確立していたから、オドナスにはそれが魅力だったのだろう。
『ロタセイ酒造』はオドナスホールディングスの子会社になり、俺は経営の勉強のために出向に出された。
そこで配属されたのが、なぜか役員秘書室だった。