風の吹くまま、笑えるほうへ
第一章:しまったままの地図
午前七時十五分。
新宿駅の喧騒は、土曜日の朝であってもその熱量を失うことはない。大きなバックパックを背負った大学生のグループ、足早に乗り換え口へと急ぐスーツ姿の男女、そして、どこへ行くとも決まっていない私。
真柴遥、二十八歳。
都内の広告代理店で働き始めて五年。目の前のタスクをこなし、クライアントの顔色を窺い、効率と成果という名の激流に身を任せてきた。気づけば、最後に心から笑ったのがいつだったか思い出せない。鏡を見るたび、そこには「まだ眠い顔」をした、ひどく疲れ切った女が映っていた。
昨日、会社を出る間際、部長から言われた言葉が棘のように胸に刺さっている。
「真柴、お前、最近余裕がないな。もっとこう、遊び心を持てよ。お前の企画、最近どれも正解を狙いすぎてて、面白くないんだよな」
正解を狙って何が悪い。間違えないように、遅れないように、期待を裏切らないように。そうやって必死に走ってきた結果が「面白くない」という一言で片付けられる。
帰宅して、スマートフォンの地図アプリを開いた。どこか遠くへ行かなければならないと思った。温泉、高原のリゾート、あるいはパワースポット。検索窓に打ち込もうとして、指が止まった。
目的地を決め、乗り換えを調べ、最短ルートを検索する。それすらも、今の私には「仕事」の延長線上に思えてしまったのだ。
私はスマートフォンをコートのポケットに突っ込んだ。
地図は、しまったままでいい。
駅の券売機の前で、一番最初に目に入った路線の、一番端の方にある駅までの切符を買った。行き先なんて決めなくていい。今日は、今日の風が教えてくれる場所に身を任せよう。そう思った瞬間、少しだけ呼吸が深くなった気がした。
ガタゴトと揺れる各駅停車の電車は、都心を離れるにつれて乗客を減らしていく。窓の外の景色が、高いビルから住宅街へ、そして少しずつ緑の混じる風景へと変わっていくのを、私はただぼんやりと眺めていた。
「遠回りでも、かまわないよね」
誰に言うでもなく呟いてみる。心なしか、肩に食い込んでいた重荷が少しだけ軽くなった。
第二章:名前も知らない町で
二時間ほど電車に揺られ、たどり着いたのは小さな終着駅だった。
改札を出ると、鼻をくすぐったのは潮の香りと、どこか懐かしい花の匂いだ。駅前にはコンビニもなく、ただ一台の自動販売機と、古びた観光案内板があるだけ。
駅を出てすぐ、緩やかな坂道を下っていくと、澄んだ音を立てて流れる川に出た。
「川沿いの道……か」
歌詞をなぞるような、おあつらえ向きの景色に少しだけ苦笑する。
川面に反射する朝日が眩しい。川べりには遊歩道が続いており、そこをゆっくりと歩き出した。急ぐ必要はない。私の足音だけが、土を踏む確かな感触とともに耳に届く。
しばらく歩くと、どこからか香ばしい、甘い匂いが漂ってきた。
焼きたてのパンの匂いだ。
匂いに誘われるまま、遊歩道から一本逸れた路地に入ってみる。そこは、車が一台通るのがやっとのような、狭く入り組んだ古い住宅街だった。
角を曲がると、一軒の小さなパン屋があった。看板には『風見鶏ベーカリー』と書かれている。
店に入ると、カランカランという乾いたベルの音が響いた。
「いらっしゃい。ちょうどクロワッサンが焼き上がったところだよ」
奥から出てきたのは、白いエプロンをつけた、柔和な表情の女性だった。
「あ、じゃあ、それを一つ。あと、このクリームパンも」
「はい、ありがとうございます。今日はいい天気ね。どこから来たの?」
「東京からです。……あてもなく、ここまで来ちゃいました」
店主の女性は「あら、それは一番いい旅ね」と笑って、パンを紙袋に詰めてくれた。
「この先の角を曲がったところに、古いお堂があるの。そのあたりは風が通り抜けて気持ちいいわよ。ベンチもあるし」
お礼を言って店を出る。
言われた通りに知らない角を曲がると、そこには時間の止まったような静かな空間が広がっていた。石造りの小さなお堂の傍らに、一本の大きな銀杏の木。その下には、古びた木製のベンチが置かれていた。
ベンチに座り、まだ温かいクロワッサンを頬張る。バターの香りが口いっぱいに広がり、胃の奥からじんわりと体温が上がっていくのがわかった。
ふと視線を感じて顔を上げると、お堂の階段の上に、一匹の猫が座っていた。
毛並みの荒れた、かなり年季の入った三毛猫だ。右の耳が少し欠けている。
「……おはよう」
声をかけても、猫は逃げる様子もない。ただ、細めた目でじっとこちらを見ている。その泰然とした佇まいは、まるでこの町の主のようだった。
「君は、ずっとここにいるの?」
猫は欠伸を一つすると、トテトテと私の足元まで寄ってきた。そして、私の靴の先に鼻を近づけてクンクンと匂いを嗅いだ後、満足したように私の足に体を擦り付けた。
名前も知らない小さな町で、名前も知らない猫に受け入れられる。
ただそれだけのことが、今の私には何よりも尊いことに思えた。スマートフォンで検索しても出てこない、私だけの「宝物」を見つけた気分だった。
第三章:立ち止まることの強さ
猫と別れ、再び歩き出す。
いつの間にか、太陽は真上に来ていた。
川沿いに戻ると、一人の老人が釣りをしていた。バケツの中を覗き込むと、小さな魚が一匹も入っていない。
「釣れませんか?」
思わず声をかけると、老人は楽しそうに笑った。
「ははは、今日は餌を忘れてな。糸を垂らして、水の音を聞いとるだけよ」
餌を忘れたのに、釣りを続けている。
効率を重視する私の日常からすれば、それは「無駄」な時間でしかない。けれど、老人の顔は驚くほど穏やかだった。
「お嬢さん、急いどるのかね?」
「いえ……今日は、何も決めずに歩いているんです」
「それはいい。人生、急いどる時は足元の石ころに気づかんが、ゆっくり歩けば綺麗な花が見つかるもんじゃ」
老人は遠くの山を指差した。
「あの山を越えるのに、最短距離で行くのも道だが、あえて麓の村を回っていくのもまた道。どっちが正しいなんてことはない。ただ、あんたが『笑えるほう』に行けばええんよ」
笑えるほう。
歌詞の一節が、老人の言葉と重なって胸に響く。
私はこれまで、常に「正しいほう」を選ぼうとしてきた。
成績が上がるほう。上司に褒められるほう。失敗しないほう。
けれど、その選択の積み重ねの先にあったのは、笑い方を忘れた自分だった。
「少しよろけても、また立てばいい……か」
これまでの五年間、私は一度もよろけることを自分に許さなかった。転ぶことは敗北であり、立ち止まることは脱落だと信じ込んでいた。
けれど、この町の風は、そんな強がりを優しく解き放ってくれる。
私は、川原の芝生に思い切り寝転がってみた。
見上げた空は、驚くほど高くて青い。
昨日の夜、部屋で一人で流した涙のことを思い出した。
企画が通らなかった悔しさ。同期に先を越された焦り。自分には才能がないのではないかという恐怖。
けれど、今見上げているこの深い青色の空の下では、そんな涙も、いつか乾くためのプロセスに過ぎないように思えてくる。
迷った日々は無駄じゃない。
その痛みを知っているからこそ、今日の空がこんなにも深く、美しく見えるのだ。
第四章:好きな明日へ
日が傾き始め、町が黄金色に染まり始めた。
そろそろ、駅に戻る時間だ。
帰り道、再びパン屋の前を通ると、店主の女性が店の前を掃き掃除していた。
「あら、おかえりなさい。いい景色は見つかった?」
「はい。最高の宝物を見つけました」
私が笑顔で答えると、彼女は嬉しそうに目を細めた。
「それは良かった。またいつでもいらっしゃい。ここはいつでも、風が吹いてるから」
駅のホームに立ち、やってきた電車に乗り込む。
行きと同じ路線の、同じ景色。けれど、見えている世界はまるで違っていた。
ポケットの中のスマートフォンが震えた。部長からのメールだった。
『昨日の件、言い過ぎたかもしれない。月曜日、もう一度お前の素直な意見を聞かせてくれ』
いつもなら「申し訳ありません」と謝罪から入る返信を打つところだが、私は少し考えて、こう返した。
『ありがとうございます。月曜日、私が本当に「面白い」と思うものを提案させていただきます』
肩の力を抜く。
それは、努力をやめることではない。
自分の心に嘘をつかず、風が吹く方向へと、しなやかに進んでいくということだ。
電車が新宿駅に滑り込む。
朝とは違う、活気に満ちた夜の街。
私は、もう迷わない。
地図は持たなくていい。
私の胸の中に、羅針盤はある。
笑えるほうへ。
心が軽くなるほうへ。
明日という日が、どんな風を運んでくるかはわからない。
けれど、私はその風に乗って、どこまでも行ける。
好きな明日へ、自分の足音を一つずつ重ねて。
駅の階段を上がる私の足取りは、朝よりもずっと軽やかだった。
夜の隙間から吹き抜ける風が、優しく背中を押してくれた。
「……よし、行こう」
私は、私自身のまま、新しい一歩を踏み出した。
エピローグ
数ヶ月後。
私のデスクには、あの町で見つけた古い猫の置物が飾られている。
企画会議で意見がぶつかった時、締め切りに追われて息が詰まりそうになった時、私はその置物に触れ、あの日の川の音と、焼きたてのパンの匂いを思い出す。
「真柴、最近いい顔してるな」
部長が通りすがりに声をかけてくる。
「はい。風通しを良くしてみたんです」
冗談めかして答える私に、部長は不思議そうな顔をしながらも、満足そうに頷いて去っていった。
完璧な人間なんていない。
正解ばかりの人生なんて面白くない。
たまには道に迷い、小さな町で猫と語らい、餌のない釣り糸を垂らす。
そんな「余白」があるからこそ、私たちはまた前を向いて歩き出せるのだ。
窓の外では、今日も風が吹いている。
次はどこへ行こうか。
行き先は、風に聞いてみればいい。




