第8話 裏切りの宰相の影
アレルシア王国・議事堂。
白い大理石の柱が並ぶ円卓の間は、昼であっても冷え切っていた。
「では本日の議題はここまでといたしましょう」
宰相ガロン・グレイの声は、穏やかだった。
老齢の紳士にふさわしい、低く、よく通る声。
「国境の動きについては、私が引き続き精査いたします。
皆さまは、どうか姫殿下の御心労をお察しくだされ」
議員たちは一斉に頭を下げる。
「宰相閣下にお任せすれば、安心ですな」
「殿下も、あなたを深く信頼しておられる」
その言葉に、ガロンは薄く微笑んだ。
「……光栄に存じます」
だが、その微笑の奥に、迷いはなかった。
人が去り、扉が閉ざされる。
議事堂に残ったのは、ガロンただ一人。
彼は、ゆっくりと書斎机へ向かい、
引き出しの奥から、赤い封蝋を取り出した。
筆を取り、迷いなく書き記す。
【帝国側、動く。開戦は、十日後
東の砦を開門せよ。内側より混乱を
姫の暗殺は不要。代わりに“喪失”を与えろ】
「……殺せば英雄が生まれる」
独り言のように、呟く。
「だが、喪えば人は折れる」
封蝋を垂らし、文を閉じる。
その手つきは、あまりにも慣れていた。
「許せ、ティアラ姫。
これは、国のためだ」
それが嘘であることを、
彼自身が、誰よりもよく理解していた。
その頃、王都地下。
湿った地下水路に、ひとつの影が立っていた。
アルだった。
「……これで、三通目だ」
手にした暗号文を、静かに広げる。
帝国の兵站。
通商路に偽装された補給線。
王都各所に刻まれた、反乱誘発用の紋章。
そして、同じ名が必ず現れる。
「宰相ガロン・グレイ」
アルは、目を閉じた。
「……確実だ。
宰相は、敵方の帝国と通じている」
声に出しても、胸は軽くならない。
(報告すべきだ)
そうすれば、王国は救われる。
裏切りは断たれ、戦は避けられるかもしれない。
だが。
脳裏に、あの声が蘇る。
『ガロン様はね、母を看取ったあと、私を育ててくれたの』
あたたかな記憶。
剣を持たぬ少女の、柔らかな笑顔。
『血のつながりはなくても……
私にとっては、“家族”よ』
「……家族、か」
アルは、壁に拳を打ちつけた。
「なぜ……俺は、黙っている」
魔界の命は、明確だ。
内通者を利用し、王国を内側から崩せ。
姫の心を奪い、国ごと堕とせ。
宰相ガロンは、完璧な駒だった。
利用すればいい。
放置すれば、帝国が動き、王国は崩れる。
すべて、任務通り。
それなのに。
「……できない」
声が、震えた。
(姫が“父”と呼ぶ男を、 俺の沈黙で、怪物にすることは)
アルは、ゆっくりと暗号文を畳む。
俺は……魔族だ
冷酷でなければならない。
情を捨て、結果だけを選ぶ存在。
それなのに。
……なぜ、姫の顔が浮かぶ
もし告発すれば、
姫は宰相を失う。
生きていても、死より重い“喪失”を。
それは、帝国の命令そのものだった。
「……俺は、すでに」
誰にともなく、呟く。
「魔族の任務を、裏切っているのか」
地下水路に、静かな水音だけが響いた。
その夜。
アルは、宰相を告発しなかった。
そしてその沈黙が、やがて王国に、取り返しのつかぬ亀裂を生むことを
彼は、まだ知らない。




