第1話 魔界のエリート貴族
かつて、魔界と人間界は、互いの存在を“毒”と呼び合っていた。
憎悪は連鎖し、復讐は正義と呼ばれ、 契約も和平も、幾度となく結ばれては破られた。 血は大地を赤く染め、空へ昇る魂は、もはや数えることさえできなかった。
その果てなき戦争の中心に―― 魔界の玉座があった。
魔界中枢・深黒の玉座。 光を拒む漆黒の柱に囲まれた玉座の間で、 魔王は静かに、だが絶対の声で命を下した。
「アイゼンハワード・ヴァル・デ・シュトラウス」
名を呼ばれた瞬間、広間の空気が一段階、冷えた。
「お前に命ずる。人間の王国アレルシアに潜入せよ」
「内から王国を蝕み、崩壊の種を蒔け」
その声には、迷いも情もなかった。 命令とは、魔王にとって呼吸と同義であり、 拒否という概念は、この場には存在しない。
だが――
命じられた男、 アイゼンハワード・ヴァル・デ・シュトラウスは、 静かに口の端を持ち上げた。
「御意に」
胸に拳を当て、片膝をつく。 姿勢は完璧。 声も、忠誠の響きそのものだった。
「すべては、魔界の栄光のために」
その姿を、玉座の脇から見下ろす影があった。
鋭い角を持ち、全身を覆う処刑官の外套。 赤黒い瞳が、微動だにせずアイゼンハワードを見据えている。
ザガード・メル=ファング。 魔王直属の処刑官にして、監視者。
そして同時に、 かつて数多の戦場を共に越えた、 数少ない“友”でもあった。
ザガードは低く告げる。
「シュトラウス家の次男が、人間界潜入とはな」
「ずいぶんと、期待されている」
アイゼンハワードは立ち上がり、軽く肩をすくめた。
「期待されるのは、慣れている」
それは傲慢ではない。 事実だった。
魔族名門シュトラウス家。
魔王に剣を捧げ続けた血統。 裏切り者も、弱者も許されぬ家系。
そしてアイゼンハワードは、 その名門の中でも異端にして最強と謳われた存在だった。
処刑任務。 反逆貴族の粛清。 密約を結んだ魔将の首を刎ねる役目。
彼の剣は、 感情を挟まず、 正確に、 容赦なく、 命令を完遂してきた。
「今回も、いつもと同じだ」
アイゼンハワードは、心の中でそう定義した。
王国を壊す。 姫に近づく。 必要なら、心を奪い、 不要になれば、切り捨てる。
簡単な任務だ。
◆◆◆
その数日後。
アレルシア王国、北の国境砦。
夜明けと共に、ひとりの異国傭兵が姿を現した。
長身。 金の瞳。 剣は無駄な装飾を排した実戦仕様。 礼節は完璧で、歩き方一つに隙がない。
名を問われ、男は答えた。
「アル、と申します」
それが、人間界での名。 魔族アイゼンハワード・ヴァル・デ・シュトラウスは、 この瞬間、過去の名を捨てた。
「祖国は失いました。名を問われるのは、少々つらい」
「ですが、剣は確かです。雇っていただけるなら、命を懸けましょう」
砦の兵たちは、互いに視線を交わした。
怪しいところはない。 むしろ、優秀すぎるほどだ。
人間は、単純だ。
アルは内心で、静かに笑った。
【第一の任務:王女に接近せよ】
魔王の言葉が、脳裏に響く。
美しく、高貴な王姫。 セーラ・ティアラ・アレルシア。
女など、所詮は情に脆い
笑顔と礼節、そして少しの詩があれば十分だ
若きアイゼンハワードは、 疑いもなく、そう信じていた。
あのときまでは。
彼は、まだ知らなかった。
その王女が、 剣を取り、 民の盾となり、 魔界の魔王ですら屈しなかった“誇り”を持つ者であることを。
そして、 その誇りが、 やがて自分のすべてを壊すことになるという事実を。




