第10話 運命が音を立てて崩れる赤き空の下で
アレルシア王都の空は、赤く燃えていた。
夕焼けではない。
それは、帝国軍の火だった。
東門が破られ、石垣が崩れ、
民の悲鳴が夜気を裂く。
逃げ惑う人々、転がる荷、泣き叫ぶ子ども――
王都は一夜にして、戦場へと変わっていた。
王宮の中庭。
王族の避難が急がれる中、
ただ一人、立ち止まる影があった。
セーラ・ティアラ・アレルシア。
彼女は、壁に掛けられた一本の剣を見つめていた。
銀の鞘。
母の形見。
かつて、守るために握られた剣。
「……姫、参りましょう。こちらです」
近侍が促す。
だが、ティアラは首を振った。
「いいえ」
その声は、震えていなかった。
「私は、行きます。前線へ」
周囲が、息を呑む。
「逃げてどうするの。
私が立たなければ、誰がこの国を導くの?」
そう言って、彼女は剣を取った。
細い指で、確かに。
恐れを抱えながらも、逃げぬ手つきで。
その姿を、柱の陰から見つめる男がいた。
アル――
否、魔族アイゼンハワード・ヴァル・デ・シュトラウス。
(……行かせれば、死ぬ)
冷静な判断だった。
(王族が倒れれば、指揮は崩れる。
混乱は拡大し、王国は瓦解する)
それは、魔王の望む未来。
魔界にとって、最良の結末。
(助けぬことこそ、忠誠)
彼は、そう教えられてきた。
そう信じてきた。
「……姫」
声をかけたのは、無意識だった。
「出陣なさるのですか?」
「ええ」
迷いのない返答。
「戦場に出れば……討たれる可能性も高い」
「分かっています」
ティアラは、彼を見た。
「けれど、誰かが最初に立たなければ。
あなたのように――誰かを守る者になりたいの」
その言葉が、刃のように胸を刺した。
(なぜ、俺を“守る者”などと呼ぶ)
(お前は知らない。
俺がどれほど、お前の死を“任務として”望んできたかを)
ティアラは、それ以上何も言わず、背を向けた。
剣を携え、炎の向こうへ歩いていく。
アルは、呼び止めなかった。
剣も抜かなかった。
(これでいい)
(俺は魔族だ。
人間の王女に、情を抱く資格はない)
だが。
砦の上。
帝国軍の弓兵が、半円を描くように布陣するのが見えた。
矢が、静かに番えられる。
その中心に――
ティアラがいた。
(……死ぬ)
その瞬間、
彼の胸を締め付けたのは、恐怖でも、罪悪感でもなかった。
ただひとつ。
失うという確信。
「……っ」
息が詰まる。
(いやだ)
魔族にあるはずのない感情が、
理性を粉砕する。
「……クソが……っ!」
アルは、走った。
剣を抜かず、鞘ごと掴み、
兵の間を駆け抜け、
石垣を蹴り、夜を裂く。
矢が放たれる――
「ティアラ姫!!」
その名を叫び、
彼は身を投げ出した。
次の瞬間、
矢が、彼の背に深く突き刺さる。
衝撃。
熱。
血。
ティアラは倒れ込み、
目の前に、彼の顔を見た。
「……アル……?」
彼は、かすかに笑った。
「……無謀だ……本当に……」
「なぜ……どうして……」
問いは、震えていた。
「……知らん」
息が荒い。
「たぶん……気でも触れたんだ」
それは、嘘だった。
(違う)
(これは、完全な裏切りだ)
魔界を。
魔王を。
自分自身を。
それでも。
「……今だけは……」
血に濡れた手で、彼は彼女を庇う。
「貴女を、守る」
それを最後に、アルは意識を失った。
ティアラは、彼を抱きしめた。
炎の中で。戦場の只中で。
涙が、頬を伝う。
夜空に、火の粉が舞う。
“裏切り”によって救われた命と、
その代償として踏み越えられた一線。
その瞬間から世界は、もう元には戻らなかった。




