第9話 崩壊の鐘
その朝、王宮は不思議なほど静かだった。
風はやさしく、白薔薇の庭園では露が光っている。
けれど、ティアラ姫の胸の奥には、名づけようのない不安が沈んでいた。
「……お呼びでしょうか、宰相」
書斎に入ると、宰相ガロン・グレイは、いつものように窓辺に立っていた。
背は少し丸くなり、白髪は増えた。
だがその佇まいは、姫が幼いころから変わらない。
「来てくれたか、ティアラ」
振り返った宰相の目は、穏やかだった。
それが、姫にはひどく懐かしく、そして胸を締めつけた。
「お加減はいかがですか?」
「老いとは、そういうものだよ。だが……まだ、姫を見届ける力は残っている」
ガロンは椅子を勧め、ゆっくりと語りかける。
「最近、眠れておられぬのでは?」
「……わかりますか」
「わかるとも。君は、隠すのが下手だ」
ティアラは、思わず苦笑した。
「宰相……私、間違っているのでしょうか」
「何を、だい?」
少しの沈黙。
そして、姫は小さく息を吸った。
「人を信じることです。
私は……信じすぎているのかもしれません」
ガロンの指が、わずかに止まる。
「信じることは、弱さではない」
「でも……信じた分だけ、失うこともある」
姫は、伏せたまま言った。
「母を失い、父を失い……
それでも私は、“信じること”を捨てずに来ました。
けれど最近、胸が痛むのです。
まるで、また誰かを失う前触れのようで……」
ガロンは、ゆっくりと立ち上がり、姫の前に膝をついた。
それは、かつて彼女が泣いた夜に、何度もしてくれた仕草だった。
「ティアラ」
「……はい」
「もしも、誰かが君を傷つけたなら」
「……」
「それは、その者が悪い。
君が信じたことが、罪になることはない」
その言葉に、姫の目が潤む。
「ガロン様……」
「私は、君が誇りだ。
君は、王としても、人としても、正しい道を歩いている」
だからこそ――
その続きを、彼は言わなかった。
“だから、壊れる”
“だから、奪われる”
そんな真実を、父の顔で語ることはできなかった。
その夜。
王宮の庭園は、香草の匂いに満ちていた。
灯籠の炎が揺れ、
白い小道の先に、ひとつの影が立っている。
「……アル」
呼び止めると、彼は振り返った。
その微笑みは、あまりにも優しく、あまりにも遠かった。
「最近、私を避けているわね」
「お気のせいです、姫」
「そうやって……また、嘘をつく」
ティアラは、一歩近づいた。
「私は、あなたを信じていた。
誰よりも。
けれど……あなたの目が変わった」
アルの肩が、わずかに揺れる。
「昔、父の側近で……裏切った人がいました。
その人も、同じ目をしていた。
“何かを抱えたまま、何も言わない目”」
沈黙。
風が、二人の間を通り抜ける。
「姫」
「……何?」
「あなたの側には、もっとふさわしい男がいます」
それは、逃げだった。
そして、拒絶だった。
「それが……答えなの?」
「ええ」
アルは深く頭を下げた。
それは忠誠でも礼でもない。
“これ以上、近づくな”という、静かな別れの所作。
ティアラは、何も言わなかった。
泣きもしなかった。
ただ、そこに立ち尽くし、
彼の背が闇に溶けていくのを見送った。
まただ。
また、何かが、私の手から零れていく。
その感覚だけが、胸に残った。
そして、その夜。
アレルシア王国・東の境界で、
敵対国・帝国の軍旗が、月明かりの下に翻った。
誰にも聞こえぬ崩壊の鐘が、
静かに、確かに鳴り始めていた。




