実らぬ努力に水をやる
「いち、にっ、さん、しー!」
「にー、にっ、さん、しー!」
校門をくぐると、威勢のいい掛け声が聞こえた。
底抜けに明るい声が、胸の奥を叩く。
校舎の陰から、グラウンドを覗いた。
陸上部は、既に朝練を始めている。
朝の空気が刺すように冷たい。
夏の名残を吹き消すように吹く風は、校舎裏に植わっているキンモクセイの香りがした。
足元には、小粒のドングリが散らばっている。
もう、とっくに秋だ。
実りの、秋。
それなのに、私の努力は、実らなかった。
「いち、にっ、さん、しー!」
「にー、にっ、さん、しー!」
昨日まで、私もあの中に混じっていた。
他の人よりずっと努力していたと、自信をもって言える。
それは、底が砂に削られたスニーカーと、側面がほつれて内部が見えるようになったスパイクが証明している。
それなのに、私は秋の新人戦に出られなかった。
選手にはなれなかった。
私は、選ばれなかった。
一歩踏み出して、すぐに引っ込めた。
代わりに、別の方向に足が向く。
「……別に今日くらいいいでしょ」
誰に言うでもなく呟いて、乾いた手をズボンのポケットに突っ込んだ。
未練がましく着た、深い紺色のユニフォーム。
何で着てしまったんだろう。早く脱いでしまいたい。
見つからないよね、と不安になって、見てるわけないでしょ、と思い直す。
それでもグラウンドの様子をちらちら伺いながら、走って昇降口に駆けこんだ。
すのこがカタンと立てた音が、心臓を高鳴らせる。
部活をサボったのは、これが初めてだ。
上履きに履き替えて、階段を上がる。
教室のドアを開けると、生ぬるい空気がぶわっと出てきた。
誰かが、窓際にいる。
緑色の葉に白い線が入った観葉植物に水をやっている。
ジョウロを傾ける手つきがやけに丁寧で、光がその指先に透けていた。
「おはよう……あれ、植村さん、朝練いいの?」
のんきそうな声に、胸の奥がチリッとした。
二年一組の環境委員、八重崎晴臣。
植物のことなら何でも知っている、クラスの植物博士。
「……あんたには関係ないでしょ」
思わずとげのある声が出た。
八重崎は一瞬きょとんとして、すぐに柔らかく笑った。
「いや、いつもより早いなと思っただけだよ。今日は朝練ないんだね」
白々しい。
「いち、にっ、さん、しー!」
「にー、にっ、さん、しー!」
グラウンドに響く明るい声は、二階のこの教室まで聞こえてくる。
カーテンを開ければ、すぐにグラウンドが見える場所だ。
八重崎が朝練があることを知らないはずがない。
沈黙が私達の間に走る。
彼は何も言わず、また鉢に水をやった。
濡れた土が、朝の光をきらりと返す。
チョークの粉の匂いと、湿った土の匂いが混ざっていた。
あんたには関係ない。
そう言ったけれど、私が早く来ることは、本当は八重崎にも関係している。
このクラスには、一度も働いたことがない、もう一人の環境委員がいる。
それが私だ。
私は、ずっと、ずっと、部活ばっかりやってきた。
だから、委員会の仕事も、勉強も、他は全部テキトーにやった。
環境委員会なんて、数合わせのために入れられただけ。私には関係ない。
八重崎だって、私なんていない方が良いに決まってる。
教室に置いてある名前も知らない観葉植物は、私がいなくても元気そうだ。
とは言っても、この植物をちゃんと見たことなんてなかったから、元気な状態とそうじゃない状態の違いなんて、わかりやしないんだけど。
「いち、にっ、さん、しー!」
「にー、にっ、さん、しー!」
教室に響く、私への当てつけみたいな声。
ああ、もう今日は学校になんか、来るんじゃなかったな。
「カラテア・マコヤナ」
突然沈黙が破られ、八重崎が何か言った。顔は植物の方に向けられたままだ。
何を言っているのかわからなかった。呪文を唱えられた気分だ。
「これ、カラテア・マコヤナって言うんだ」
八重崎が言った。
やっぱり、なんて言っているのかはわからない。
植物の名前らしいことはわかったけど、そんなの興味ない。
「あっそ」
わざと彼を傷つけるように言って、乱暴にバッグを机に置いた。
ダーンと大きな音がして、自分でビクッとしてしまった。
自分で立てた音に肩をすくめている自分が情けなくて、それでもまだ働く無駄なプライドが、瞬時に私の目を八重崎に向けさせた。
「今年、初めて花が咲いてさ。先生も初めて見たって」
「はぁ」
肩を少しも動かさず、音も私の態度も全く気にしていないかのように、八重崎は話し続けた。
「白くて小さい花なんだけど、案外可愛くて」
音に驚いた自分が小さな子供みたいで。
そして、八重崎に八つ当たりしている自分がもっと子供みたいで。
嫌になる。
胸の奥が、陽に焼けた土みたいにじりじり熱い。
踏みにじられても、どうしても冷めない熱。
息をするたびに、のぼせた空気が喉の奥にこもっていく。
「それで?」
「実はならなかった」
不自然な間が開いた。私はただ待った。
「やっぱり、室内じゃ難しいね」
へにゃりと笑ったその顔が、胸の奥の熱をさらに掘り返す。
「努力は実らないものなのかもしれないね」
乾いた土に雨が一滴落ちたように、その言葉が胸に沁みた。
一瞬で消えたのに、心の土に跡だけが残った。
「けど、根にはなると思うんだ」
「……なに、それ」
「調べたんだけどね、植物って、鉢を大きくすると急に根が伸びて、葉も増えるんだ。でも、代わりに花や実がつかなくなる。花や実をつけたい時は、鉢が小さい方がいいんだって」
「何が言いたいの」
「ん-……もしかしたら僕は、自分に言い聞かせてるのかも」
その言い方が気になって、思わず顔を上げた。
八重崎は、少し遠くを見るような目をしていた。
「僕、小学生のときはリレーの選手でさ。走るの、好きだったんだ」
「へぇ、意外」
「でも、中一のときに足ひねって。それを隠して走ってたら、変な癖が残っちゃった。もう全力で走れない」
その言葉が、教室の空気をすっと冷やした。
窓から射す光の筋が、八重崎の足元を照らす。
その光の中で、ジョウロの口から落ちる一滴の水がゆっくりと葉の上を滑り、土に吸いこまれていった。
「……それで、部活やめたの?」
自分でも驚くほど、声が小さかった。
八重崎は、少し考えるように首をかしげてから、頷いた。
「うん」
「……そう」
「でも、走る代わりに植物を育ててみたんだ。土の上にいるのが、ちょっとだけ気持ちが楽でさ」
また、沈黙。
外からは、まだ掛け声が響いている。
同じ声なのに、さっきより遠く、くぐもって聞こえた。
「植物って、見てると焦らされるんだ」
八重崎が、少し笑った。植物に向けられたその目は、温かい春の陽のようだった。
「毎日世話しても、すぐには何も変わらない。でも、根のほうはちゃんと伸びてる。目には見えないけれど」
彼はジョウロを置き、カーテンの影にある鉢を持ってきた。
手のひらに乗るくらい小さな鉢で、弱々しい双葉が顔を出している。
「この子なんて、芽が出るまでにすごく時間がかかったんだ。枯れるかなって思ったけど、気づいたら葉っぱが出てた。たぶん、土の中で頑張ってたんだと思う」
八重崎は少し間をおいて、ふと思い出したように言った。
「植村さんってさ、下の名前、萌生だよね」
「そうだけど」
「『生』って漢字は、小さな葉っぱがやっと土から出てきたところなんだよ。土から出てきたのはいいけど、どういうふうに成長したらいいのかわからない。そんな状態」
言葉を失った。土の中。見えないところで。それは、ずっと努力してきた自分の姿と重なった。
見てもらえない、評価されない、報われない努力。
けれど、それでも。
努力したいって思ったんだ。
理想の自分になりたかったんだ。
選ばれたかった。
認めてほしかった。
「……そういうこと、軽く言わないでよ」
やっとのことで言葉を絞り出した。声が少し震えていた。
八重崎は驚いたように目を見開き、それから静かに笑った。
「軽くなんか言ってないよ」
その穏やかな声が、土の匂いみたいに胸に染み込んでくる。
窓の外を見た。
朝日がグラウンドの白線を照らしている。 選ばれた子たちが走っていく。
あの中に、自分の居場所はもうない気がする。
だけど――。
「努力は、実らなかったかもしれない」
呟くように言った。
八重崎がこっちを向いた。
何気に、彼とちゃんと目を合わせて話すのは初めてだ。
植物に向けられていたあの穏やかな視線が、今私に向けられている。
少し唇を噛んでから、続けた。
「でも、根には……なってるのかもね」
彼は静かに笑って頷いた。
「うん。泥にまみれながらね」
二人の間に、柔らかい沈黙が落ちる。
窓の外で、キンモクセイの花が一つ、風に散った。
苦いくらいに甘い香りが教室に流れ込む。
机の上の鉢を見つめ、そっと葉の先を指でなぞってみる。
思っていたよりも、葉はしっかりしていた。
見えないところで、根をちゃんと張っている証拠だった。
「……水のやり方、教えてよ」
「え?」
「せっかくだし、環境委員の仕事くらい、やってみようかなって」
八重崎は嬉しそうに目を細めた。
「わかった。とりあえずこのサボテンからかな」
外の掛け声は、もう聞こえなくなっていた。
その代わりに、窓辺の鉢から、かすかに水の染み込む音がした。
朝の光が差し込み、二人の影が机の上で重なった。
しゅっ、しゅっ。
水の粒が小さな棘にくっついて、朝日の中できらきらと光る。
実りの秋だってのに、私の努力は実らなかった。
でも、きっとどこかで、根になっている。
そんな気がした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
<MEMO>
八重咲の桜の花言葉は、「しとやか」「豊かな教養」「理知に富んだ教育」。
カラテア・マコヤナの花言葉は、「飛躍」「強い思い」「温かい心」。
サボテンの花言葉は「枯れない愛」「燃える心」「温かい心」「偉大」。




