出立
この村には古くからのしきたりがある。しきたりと言っても刑罰で縛るようなものではなく、どこか穏やかで、しかし誰もが守るべきと感じている約束ごとだった。
<十六歳に満たぬ者、外界への侵入を禁ずる>
村は深い森に囲まれていて、外へ出る道は一本だけ。その道を辿らなければ村の外へは出られない仕組みになっている。だから普段、子どもたちは森に入ることもほとんどなかった。村は決して狭くはなく、人も程よく住んでいて、顔見知りや仲の良い友人もたくさんいる。外の世界に対する憧れはあっても、日々の暮らしは穏やかで、危険は大人たちに任せておけば良い——そんな空気が村を包んでいた。
それでも、ある日のことだ。たまたま兎を追いかけていたら、いつの間にかいつもの境界を越えてしまっていた。小さなことに夢中になっているうちに、足は森の深い方へと吸い込まれていったのだ。気づけば自分は、見慣れた光景から離れ、見渡す限り樹々と影だけの世界の中にいた。自分の鼓動の音が、これほどまでに大きく聞こえたことはなかった。幼い頃から「森には化け物が住む」と教えられてきた。だから心臓が早鐘のように打つのも当然だった。
そのとき、視界の端で何かが動いた。小さな虫ではない。大きな――そんな直感がわいた瞬間、その「何か」はこちらへ向かって走ってきた。ようやく理解が追いついた。猪だ。村人が森から担ぎ帰ってくるときに見たあの姿。だが、解体されて肉になった状態でしか見たことがなかった生の猪は、立派で獰猛で、まるで別の生き物のように恐ろしく見えた。
猪はどんどん近づく。湿った木の匂い、倒木の軋む音、遠くで鳴く鳥の声が音量を下げ、世界が一点に集中していく感覚がした。森の中で足はもつれ、木の根に引っかかって転んでしまった。胸が締めつけられるように苦しく、息は浅く速くなる。立ち上がる力が湧かない。もうダメだ──そう覚悟して目を閉じた。
──トスッ。
突き刺すような衝撃のはずが、来たはずの衝撃は起こらなかった。耳に触れるような柔らかな音。目を開けると、猪の脳天に矢がめり込み、前のめりに倒れ込んでいた。その矢の先端は深く埋まっていて、血はまだ流れている。猪の後ろ、木立の向こうに人影があった。近づくと、その人は胸元で小さく光るものをつけている。見覚えがあった——父がいつも首にかけているネックレスだ。
「お父さぁぁぁぁん!」
気が抜けたように涙が溢れ、声が震えた。急いで立ち上がり、転んだまま父に飛びついた。父は一瞬驚いたように目を大きくし、それから力強く自分を抱きしめ返した。抱擁の温度、服の布地、父の背中に感じる鼓動──それらが一気に安心という名の塊となって押し寄せてきた。家に戻れば叱られることは言うまでもない。母もきっと叱るだろう。でも今は、たった一つの事実──自分が生きていること、そして父がそこにいること──だけが大きかった。
父の矢は正確で、狩人としての腕前が我が身を救ってくれた。その夜、家では父と母の間で厳しい口調のやり取りが交わされた。母は、外の世界に出た友人が戻ってこなかった話を引き合いに出し、息子の危険について涙ながらに訴えた。父は黙って話を聞き、何度も何度も自分の顔を見た後でようやく言った。
「本当に、行きたいのか?」
その問いは単純だが重かった。しかめっ面の多い父が、普段とは違う真剣な眼差しで見つめている。自分は迷いなく答えた。
「行きたい。一度、この世界をこの目で見たいんだ。」
父はしばらく考え、そしてゆっくりとうなずいた。
「…わかった。お前が自分で決めたのなら、俺は何も言わん。ただ、世界は厳しい。少なくとも、戦う術は持っておけ。」
そうして次の日から、父は弓の手解きを始めた。母は不安そうに黙って見守り続けた。弓の扱いは想像以上に難しかった。父が渡してくれた弓は弦が堅く、矢を引き絞るだけでも腕の筋肉が悲鳴を上げた。狙いを定めるには、呼吸の調整、足の踏ん張り、心の静けさが必要だった。父は容赦なく厳しく教え、何度も失敗を重ねる度に叱咤し、時に褒めた。解体の仕方や獲物の運び方、森での方角の見取り、危険を察する勘も教わった。父の教育は単なる技術の伝授ではなく、生き抜くための心得そのものだった。
六年が過ぎ、ついに十六歳の朝が来た。村ではささやかながら祝いの声が上がり、友人たちとは既に別れの挨拶を交わしていた。父は、自分がいつも首にかけているあのネックレスを差し出した。手に取ると、その重さと冷たさに父や祖父の過去が詰まっているのを感じた。
「これは俺も自分の父さんからもらったものだ。お守り代わりに思っていてくれ。」
涙が込み上げる。承継された小さな輪っかは、一族の歴史であり、父の覚悟の証でもあった。約束として「必ず一年に一回は帰ってこい」と言われ、母の目は複雑に潤んでいたが、それでも笑って見送ってくれた。
「行ってきます!」
背に鞄を担ぎ、村に一礼してから自分は外へ向かって走り出した。胸中は期待と不安で波打っている。外の世界への扉はついに開かれたのだ。
だが村を出る前に、ひとつだけ済ませたいことがあった。どうせなら、あの時父が倒したあの猪を、自分の手で仕留めてから行きたい。自分の成長を確かめたかったのだ。
森へ少し足を踏み入れると、しばらくして目当ての猪を見つけた。今回は猪はこちらを向いていなかった。狩人としての習慣が身体に染みついていることに気づく。周囲の空気が一層静まり、弦を引くときの指先の感覚、矢の重さが手のひらで生き物のように感じられた。呼吸を整え、狙いを定め──放つ。
矢は軽い音を立て、猪の肩に深く刺さった。猪は驚いて振り向いたが、木の陰に隠れたためかこちらには完全には気づかなかった。再び矢を番え、狙いを定めて放った。今度は頭部を貫き、猪は静かに倒れた。近づいてその胸の鼓動が止んでいるのを確かめ、手早く解体を始める。肉は村へ持ち帰り、皮と爪は売るために分ける。父から教わった通り、肉には保存用のハーブをすり込んで長持ちさせた。重くなった鞄を背負うと、それ自体がひとつの成果の証のように思えた。
そして、来た道を戻る。村の外へ続く一本道を一歩ずつ踏みしめながら、自分は考えた。これから出会うであろう風景や人々、危険と驚き。恐怖は消えていないが、それ以上に知りたいという欲求が大きかった。父の言葉、母の願い、友人たちの笑顔——それらを胸に、自分は外の世界へ足を向けた。




