怒られないボタン
「このボタンを押せば、誰にも怒られません」
加賀は、仕事帰りに立ち寄った駅前の骨董市でそのボタンを手に入れた。掌にすっぽり収まる銀色の円盤。 「千円で人生が変わるなら安いもんだ」そう思って、冗談半分で買った。
翌朝、プレゼン資料を丸ごと忘れて出社した。
上司が眉をひそめた瞬間、加賀はポケットの中でボタンを押した。
「……まあ、いいか。また次回頼むよ」
あまりにもあっさりと、許された。
* * *
加賀は、怒られそうな場面で迷わずボタンを押すようになった。
遅刻したとき、押す。
会議で居眠りしてしまったとき、押す。
恋人の誕生日を忘れてしまったときも、押す。
新入社員の成果を横取りしてバレたときも──押した。
怒られるはずだった言葉は、笑顔や沈黙に変わる。
怒鳴り声が出かけた口は、すんでのところで閉じられる。
誰もが穏やかに、加賀を見逃してくれる。
ボタンがあれば、人生はずっと快適だった。
* * *
加賀は街角でひとりの少年を見かけた。
拳を握りしめ、電柱を殴っていた。通行人に無言で睨みをきかせている。
その目は、何かに耐えきれなくなった獣のように血走っていた。
少年は加賀に気づき、じっと見つめる。
「……おまえか」
少年はボロボロになったバッジを差し出す。
そこにはこう書かれていた。
『怒り引受体 1192号』
「おまえがボタンを押すたび、誰かの“おまえへの怒り”が、ぜんぶ俺の中に注ぎ込まれてくるんだよ」
「ただ、焼けるような感情がぶつかってくる。何の説明もなく、何度も、何百回も」
加賀は一歩後ずさる。
「知らなかった……俺は、ただ……」
震える指で、ポケットの中のボタンを押す。
少年はゆっくり笑った。
いつも通りだ、許された。
「俺の“おまえへの怒り”は、何度ボタンを押しても、俺に返ってくるんだ」
少年の笑顔は狂気に満ち、手には鈍く光る凶器。