9 座敷 前編
「……悪かった。痛くしてないか」
八緒が行ってしまうと、桐人は朝葵の腕から、そっと自分の手を放した。
「あ、いいえ、全然。こちらこそ、手を煩わせてばっかりで……」
「まだまだ、気は抜けないがな。なんにしても、『約束』をせずにすんだのはよかった」
桐人は大きく息を吐くと、少し表情をゆるめた。朝葵も、自分が痛くなるほどずっと肩に力を入れていたことに気づいた。
「とりあえず、中に入ろう」
「はい」
座敷に入ると、朝葵はすぐに障子戸をぴったりと閉めた。できれば縁側の雨戸も閉めたかったが、あまり外にも近づきたくなかった。
……それにしても、庭の奥に見えた黒い塊は何だったのだろう。寝る準備をしようと、朝葵はリュックからTシャツを取り出した。しかし呑気に眠れるとは思えず、朝葵は上だけを着替えたあと、膝を抱えて座っていた。
「吉良」
そうしていると、襖の向こうから桐人の声がした。
「あ、はい」
「ちょっと、話せるか」
「大丈夫です。襖、開けますね」
朝葵が襖を開けると、桐人が立っていた。桐人はシャツだけを替えており、下はジーンズ姿のままだった。ちらりと見える桐人の布団に、朝葵は違和感を感じた。
(あれ)
布団が盛り上がっている。まるで、誰かが寝ているようだ。
「先輩、布団が……」
「ああ、これか」
桐人は布団のところに歩いて行って、掛け布団をめくった。そこには、妙なものがあった。枕に、桐人がさっきまで着ていたシャツが着せてあるのだ。
……なんだこれ。朝葵は色々と考えた末に言った。
「……抱き枕代わりですか」
「違う」
じゃあなんだろうと朝葵が首をひねっていると、桐人がいたって真面目な顔で言った。
「君にも同じものを作ってほしい」
「というと……」
枕に今日来ていた服を着せてくれ、と桐人に指示され、朝葵は脱いだばかりの上着を枕に着せた。
「それを、こっちに渡してくれるか」
「これ、どうするんですか」
「うん……。これもアドバイスに従ってるだけだからな。変に思うなよ」
朝葵は、服を着た枕を持って、桐人の部屋に入った。桐人は朝葵の枕を受け取ると、桐人の枕の横に並べ、布団をかぶせた。
(え)
「なんですか、これ」
「一応、身代わりだ」
「身代わり……」
布団から覗いているのは、間違いなく自分たちの服だから、さっきまでの朝葵と桐人が一緒の布団に入っているようで、なんとなく気恥ずかしくなる。
でも、どうしてどちらも桐人の布団に入れるのだろう。それに、これでは桐人は布団を使えない。
「先輩、寝ないんですか」
「どうせ、今夜は寝られないんだ。吉良だって、布団に入る気になるか?」
「いやあ、無理ですね……」
八緒が去ってから、また、いやな視線に取り囲まれるような感じがしていた。今夜は電気を消さずに、がんばって夜明けを待とうと思っていたところだった。
桐人はちょっと口ごもりつつ、申し訳なさそうに言った。
「吉良がよければ、とりあえずこっちの部屋にいてほしい。何かがあったときに対応しづらいから」
「わかりました」
朝葵は素直に返事をして、座敷の間の襖を閉めた。実のところ、雨戸が開いているのは、どちらかといえば朝葵の座敷の側だったので、桐人の座敷のほうがまだいくぶん安心できた。
普通なら、いくら朝葵でも男性と同じ部屋で一晩過ごすのは抵抗がある。しかし、今はそんな場合ではない。意味深に開けられた雨戸といい、八緒がこのまま何事もなく夜明けを迎えさせてくれるとは思えない。
(ぜんぶ、私たちの考えすぎだったらいいのに)
そう願うも、とても楽観的にはなれなかった。
桐人が木戸の近くに腰を下ろしたので、朝葵もその隣に座った。腕時計を見ると、22時45分になっていた。
朝葵は、リュックから持ってきた水筒を開け、中のお茶をひとくち飲んだ。飲み慣れたお茶の味に、昨日までの当たり前の日常が思い出された。
隣の桐人に目をやると、桐人もペットボトルを手にしていた。結局、朝葵たちはこの家の水すら口にしていない。
「あの、先輩、そういえば」
「なんだ?」
「結局、食事のことって……」
「ああ……、そうだな」
夜明けまでには、まだまだ時間がある。桐人は話す気になってくれたようだった。
「吉良は、『蠱毒』というものを聞いたことはあるか。皿の上に、虫3つの漢字のやつだ」
桐人は、空中に指で字を書いた。朝葵は、ホラー漫画でその字を見たことがあった。
「あ、わかります。確か、甕の中に虫とかをいっぱい入れて、戦わせるんでしたっけ?」
「作り方は色々あるんだが、おおまかにはそんな感じだ。生き残った虫や小動物は『蠱』となり、術者はそれを使役する。だから、……似ていると思わないか」
「似ている?」
「『憑きもの』とだ」
「あっ……、確かに」
虫とキツネなどの違いはあるが、「小さい生き物を使役する」という点は似ている。
「『蠱毒』は元々中国のもので、歴史は古い。隋の時代には蠱毒の一種で、『猫鬼』という猫の霊を使って呪う話がある」
「じゃあ、中国から日本に伝わって?」
「そうだ。日本も奈良時代の律令で、『蠱毒』が取り締まられている。日本の『憑きもの』という概念は、多かれ少なかれ『蠱毒』の影響を受けていると考えていいだろう」
「そうすると、『蠱』も『憑きもの』みたいに、自分の手下のように使うんですか?」
八緒は、おそらく『憑きもの』に朝葵たちを見張らせている。蠱毒の虫も、同じような働きをするのだろうか。
桐人は、軽く頷いた。
「それはそうだが、それだけじゃない。『蠱毒』はそもそも呪術だ。『蠱』を使う目的は、それを使って人を呪ったり、害したり、金品を得たりすることだ。『毒』とつくだけに、『蠱』が食事に混ぜられることもある」
「あっ……、だから……」
「ああ、この家のものを口にしないのは、その用心だ」
あっさりと引き下がった八緒は、そのように用心されることに慣れているのかもしれない。
「久万先輩は、この家の『憑きもの』がどんなものか、ご存じなんですか?」
「……俺は情報をつなぎ合わせているだけだから、全部知っているわけじゃない。ただ、想像はつく。彼女が『お山が大事』と言っていただろう」
「そう言えば……」
――このお山は、この家にとって大事なものだから。
「それと、この地方のことから考えると、キツネ系のイメージだろうなと思う」
「キツネ系……ですか。場所によって、『憑きもの』って違うんですか?」
「ざっくりと地域によっては分かれているが、家ごとに違う可能性もある。蠱毒というのは、いわゆる正道のものじゃない。利益を得るために、生き物を犠牲にする呪術だ。そんなものは密かに伝えられたはずだから、人に知られないうちに独自の発展を遂げていてもおかしくないんだ」
「なるほど……」
「近年の研究に協力してくれた家のおかげで、『憑きもの』の分布などがわかるようになった。それまでは偏見もあったし、噂程度の話しかわからなかっただろうな」
桐人は、『憑きもの筋』に関する論文はいくつもあるのだと教えてくれた。研究について話す桐人の目は、好きなものを前にした子どものような、純粋な喜びをたたえていた。
こんな状況ではあったが、朝葵は桐人の話に引き込まれた。
(やっぱり、あのゼミに入りたいなあ)
こんなふうに前向きに学ぶ人のそばは楽しいだろうな、と朝葵は思った。しかし、それも無事に帰れてこそだ。
(そういえば……)
朝葵は、応接間での桐人と八緒の会話が気にかかっていた。饒舌になっている今なら、桐人は答えてくれるかもしれない。
「あの、先輩」
「ん? なんだ?」
「さっき話に出ていた、佐々木陽菜さんって……」
その時、いきなりバチンと大きな音を立てて、部屋の明かりが消えた。
「ひえっ……」
朝葵が悲鳴を上げると同時に、座敷は漆黒に包まれた。
「て、停電でしょうか……?」
「……わからない。ちょっと、様子を見よう」
朝葵と桐人は、その場でじっと身を潜めた。一時的な停電かと思ったが、待っていても電気は点かない。少し目が慣れ、障子戸の格子だけがぼんやりと見えた。
「私、電気のスイッチ見てきましょうか?」
「……いや、今は動くな」
「え」
朝葵が耳を澄ますと、しんとした中に、かすかな音が聞こえた。朝葵の部屋のほうから、何かが滑るような音が。
(……嘘)
音の方向から、何が起こったかがわかった。何者かが、朝葵の座敷の障子戸を開けたのだ。
(八緒さんなの……? でも、それだけじゃない……)
見えないのに、肌が感じる。あの庭の奥の、黒い塊が動いている。
地を這うように動き、ゆっくりと家のほうへと向かっている。もはや、庭と朝葵の座敷を隔てるものは何もない。あれは、今まさに縁側を乗り越え、中へと侵入しようとしているのだ。
(いやっ……)
朝葵が、思わず身をすくめると、桐人の肩に当たった。朝葵が暗闇の中で目をこらすと、桐人も朝葵の座敷のほうを見ているようだった。
「先輩……」
「ああ」
しばらくすると、朝葵の座敷のほうで、何かが這い回る音がした。畳が擦れる音が、近づいたかと思えば遠ざかる。部屋中を動いているようだ。
ばさり。
布団を動かす音がしたとき、たまらず朝葵は桐人の腕をつかんだ。
「……!?」
桐人はなんとか声を出さずにこらえたようだが、目を丸くしている。朝葵は、必死に木戸を指さし、桐人の腕を引っ張った。
桐人が朝葵の言わんとすることを察し、音を立てないよう、静かに木戸を開けた。廊下も電気は点いておらず、真っ暗だった。
(この部屋からも、出なきゃ)
朝葵にはわかる。あれは、朝葵を探している。暗い中ではあれも目が利かないのか、手探りのような形で探しているようだ。しかし、いないことがわかれば、桐人の座敷にも入ってくるかもしれない。
桐人のほうが木戸に近かったので、先に動いた。桐人は音を立てないように座ったまま、少しずつ身体をずらして廊下に出た。桐人がすっかり出てしまうと、朝葵も続いて、同じようにじりじりと戸の隙間から身体を出し始めた。
すると、襖がカタンと音を立てた。朝葵がそろりと首を回して襖のほうを見ると、襖は左右にゆっくりと開いていっていた。
(もう……、こっちに……!)
朝葵は、ごくりと息を呑んだ。朝葵の身体は、恐怖にこわばっていた。
ここまでお読みいただいてありがとうございます。次のお話も、引き続き楽しんでいただければ幸いです。




