8 廊下
応接間は玄関に近いところにある、絨毯が敷かれた洋間であった。奥の壁には豪奢な木製のマントルピースが据えられ、その前にはティーテーブルを囲んで、ソファや安楽椅子が置かれている。
「さあ、好きなところにどうぞ」
八緒は、迷わず奥の椅子に座った。おそらく、そこが彼女の定位置なのだろう。朝葵が桐人と同じ長椅子に並んで座ると、八緒とテーブルを挟んで向かい合う形となった。
(それにしても、綺麗な人だなあ)
八緒のことは怖いが、それを差し引いても見蕩れるような美人だ。整いすぎるほど整った顔立ちは言うまでもなく、ほっそりとした体躯は女性らしい曲線を描いているし、長い黒髪は、色白の小さな顔を際立たせている。
その座り姿は優雅で、女主人というよりは、女王のようだった。朝葵は、桐人の言葉を思い出した。
――越名さんの実家は、その『憑きもの筋』と言われている家なんだ
――もし、そういったモノを使役できる人間がいたとしたら……
この異様な家の中で、何かわからない『モノ』を従えている女王。そう言われても納得できるような雰囲気を、八緒は持っていた。
「ほんとうに、遠いところをよく来てくださったわね」
八緒は愛想のよい笑顔を浮かべている。しかし、桐人は厳しい表情を崩さず、投げつけるように言った。
「越名さん、俺たちは明日の夜明けにはここを出ます。いいですね」
「あら……、いきなり無粋ねえ。もっとお話を楽しみましょうよ」
「ごまかさないで答えてください。……いいですね?」
「……わかったわ。もう、あの人が知恵をつけたから、こざかしいこと」
朝葵は2人のやりとりにはらはらしていたが、八緒は応酬を楽しんでいるのか、笑顔のままであった。
「あの、越名先輩」
「あら、朝葵さん。八緒と呼んでと言ったでしょう」
「あ……、じゃあ、あの、八緒さん」
「なあに?」
「ご家族って、今日はいらっしゃらないんですか? ご挨拶もできていないので……」
いくら広いと言っても、この家には、あまりにも人の気配がしない。八緒に兄弟や姉妹がいるかどうかは知らないが、実家なら普通、親がいるはずではないだろうか。一晩お世話になるからと、朝葵は一応手土産も用意してきたのだ。
「……私、家族はみんないなくなってしまったの。だから、家には誰もいないわ」
「あっ……」
「一昨年に姉がいなくなって……、それが最後」
「すみません」
朝葵は慌てて、自分の無神経な言葉を謝ったが、八緒は気にしている様子もなかった。
「いいのよ。でも、お手伝いがいるから、苦労はしていないわ」
「あ、お手伝いさんはいらっしゃるんですね」
「ええ、便利だけど……とっても欲張りなお手伝いがね。ふふふ」
「はあ、欲張り……」
この家のお手伝いさんは、あまり善良な人物ではないのだろうか。手土産を取り込まれたり、何かを要求されたりしても困るので、顔を合わせない方がいいのかな、と朝葵は思った。
八緒は、朝葵たちの方へと少し身を乗り出した。
「それより、あなたたちのことを聞かせてほしいわ。お二人はお付き合いをしているの?」
「へえっ?」
「…………何を言うんですか」
微笑む八緒とは対照的に、桐人は強く眉根を寄せ、眉間に深い皺を作っていた。そして、横に首を振った。
「付き合ってなんかいませんよ。俺は、あのときたまたま通りかかっただけです」
「そ、そうなんです。私が巻き込んでしまったというか……」
「あら、そうなのね」
八緒は、口の端を上げて嬉しそうに笑った。
「じゃあ、朝葵さんのそばには、私が入り込む隙があるわね」
「は、え?」
「ね、朝葵さん。私の近くにもいてくれるわね?」
「え、ええと……」
八緒から向けられた流し目も、ささやくようにねだる声も、ひどく蠱惑的だった。女の朝葵でも、くらっときてしまいそうだ。ゼミ見学のときに八緒を取り囲んでいた学生たちなら、すぐにでも首を縦に振っただろう。
しかし、今の朝葵は事情が違う。
(約束だけはするなよ……って、さっき久万先輩に言われたばっかりだしなあ)
桐人が言うからには、何か理由があるのだろう。とはいえ、ここは八緒の家の中だ。無下に断っていいものかどうか迷い、朝葵が返答に困っていると、
「だめです」
と、桐人が強い口調で口を挟んだ。
「吉良には吉良の生活がある。今回みたいに、無理矢理誘うのはいけません」
「あら……」
今度は、八緒は少し残念そうな表情を浮かべた。同じように、何気ない話題から八緒が朝葵を誘い、桐人が断るという流れが続いた。
「……あなたが、どうして私と朝葵さんの邪魔をするの? 関係ないでしょう」
「じゃあ聞きますが、越名さん、佐々木はどうなったんですか」
「……陽菜さんは、私のそばにいたいと言ってくれたわ」
(佐々木……? 陽菜……? 誰のことだろう)
「俺が聞いているのは、佐々木が去年の夏、ここに来てからどうなったかです」
(もしかして、去年いなくなった……?)
「私は寂しいの。誰かにそばにいてほしいことが、そんなにいけないの?」
「寂しいからって、何でも許されるわけじゃない。あなたは吉良のことなど考えていないでしょう。ただ、自分の役に立てばいいと考えてる」
「ひどいことを言うのね」
桐人はずっと、厳しい表情を崩さなかった。桐人の本質であろう穏やかな優しさは鳴りを潜め、八緒に対して抑えがたい怒りを抱いているように見えた。
八緒もまた、しばらく桐人を睨んでいたが、やがて、深く息を吐いた。
「……やっぱり、あなたを呼ぶべきではなかったわね。すっかり、あの人の手先になって」
「そうかもしれませんね」
「もう、いいわ。お話は終わりにしましょう」
「そうですね」
八緒は立ち上がり、扉のほうへと向かった。どうやら、本当にこれで終わりになるらしい。朝葵が時計を見ると、時間は22時近くになっていた。
「お部屋まで、お送りするわ」
八緒は応接間を出ると、来たときとは逆の方向へ向かった。
(あれ)
朝葵は不思議に思い、八緒に声をかけた。
「あの、八緒さん」
「なあに?」
「お部屋って、あっち側じゃないんですか?」
朝葵は来たほうを指さしたが、八緒は笑って言った。
「ふふ、大丈夫よ。朝葵さんたちのお部屋には、こちらからも行けるのよ」
「あ、そうなんですね」
「…………」
桐人は黙ったままだった。朝葵と桐人は、先導する八緒について歩いた。
やがて、長く伸びた廊下が現れたが、最初に座敷に行くときに通ったものとは異なって、内側に続いているのは障子戸だった。
(ということは、この廊下は、座敷の奥のほうの……)
障子戸の外側が、今歩いているこの廊下なのだろう。廊下は内縁になっているらしく、もう一方には、木製のしっかりとした雨戸が閉められていた。
「この雨戸の外が、お庭になっているの。お山と家の間を中庭にしてあるのよ」
「山との間……ですか」
「ええ。このお山は、この家にとって大事なものだから」
「へえ……そうなんですね」
廊下を半ばまで進むと、雨戸が途切れ、ぽっかりと開いている部分があった。八緒はそこで足を止めた。
「お部屋に着いたわ」
「えっ……」
座敷のほうを見ると、障子戸は開けられていて、いつの間にか延べられた布団の向こうに朝葵のリュックが覗いていた。確かにここは、自分たちの座敷らしい。
(なんで、ここだけ……)
雨戸は開けてあるというより、取り払われている。生ぬるい外の空気と直に聞こえる虫の音が、ガラス戸も、網戸すらも、そこにはないことを教えてくれる。庭を見せるためかもしれないが、これではあまりに無防備だ。不安に駆られ、朝葵は思わず外を見た。
庭はすでに夜の闇に呑まれていて、廊下の蛍光灯の光が届く範囲でだけ、木々や石灯籠のわずかな輪郭が見えるばかりだった。しかし、
(あれ、なんだろう)
その闇の奥に、何かが見えるような気がする。黒い塊のようなものだ。妙に気になって、朝葵は目をこらした。
「ん……?」
「朝葵さん、どうなさったの」
「……いえ、庭の奥の方に、何か見えた気がして」
「まあ」
八緒は少し驚いた表情を浮かべたあと、頬を上気させ、朝葵の手を取った。
「わっ」
「あなたにも見えるのね。素晴らしいわ」
八緒の手は、相変わらず冷たかった。じっとりとした、絡みつくような八緒の手の感触が、渡り廊下のときの恐怖心を思い出させた。
「朝葵さん、やっぱり私のそばにいてちょうだい。私、一人は寂しいの」
「あ、あの」
「越名さん、もういいでしょう」
そう言うと、桐人は横から朝葵の腕をつかみ、八緒の手を振り払った。
「吉良も疲れている。もう休む時間です」
「…………また……」
「もう一度言います。俺たちは、明日の夜明けには帰ります。そして、二度とここには来ない」
「……できるものなら、やってごらんなさい」
八緒は唇を噛み、桐人を恨めしげに睨んだ。美しい造作なだけに、八緒の青白い顔は凄みが増し、朝葵は桐人に手を取られたまま、後ずさりをした。
八緒は、朝葵の腕をつかんだ桐人の手に鋭い視線を向けた。
「あまり、朝葵さんに触らないで」
今までにない、険のある声だった。朝葵がびくりと肩をふるわせると、八緒はすぐにいつもの微笑に戻った。
「……ふふ、では、お二人ともおやすみなさい。いい夜を」
八緒はそれだけ言うと、廊下の奥へと消えていった。
ここまでお読みいただいてありがとうございます。次のお話も、引き続き楽しんでいただければ幸いです。




