3 テラス
「君、いいのか」
桐人に声をかけられ、朝葵ははっと我に返った。そろーりと桐人を見上げると、桐人は顔に困惑した表情を浮かべて、朝葵を見下ろしていた。朝葵は慌てて桐人の方に向き直り、頭を下げた。
「申し訳ありませんでした!」
「な、なんだなんだ」
「ご迷惑をおかけしました……。すみません、巻き込んでしまって」
朝葵は顔を上げると、桐人の方に両手を差し出した。桐人の手には、八緒が渡した封筒が握られていた。
「その封筒を、いただけますか?」
「封筒……、ああ、これか」
桐人は、自分の手にある封筒に目をやると、顔をしかめた。その仕草に、朝葵の罪悪感は増した。朝葵は、さっきよりも深く頭を下げた。
「本当にすみません! 私、一人で行きますから、大丈夫です。私から、越名先輩にはお話ししますので……」
朝葵はまた、桐人に向かって両手を出した。八緒の口ぶりからは、朝葵がさっきの言葉を撤回して一人で行きたいと言えば、受け入れてもらえるだろう。桐人が断るよりは、角が立たないはずだ。
そう思っていたから、朝葵は桐人がすぐに封筒を渡してくれると思っていた。しかし、予想に反して、朝葵の手に封筒は置かれなかった。
「あの……」
勝手なことばかり言うので、桐人が怒ったのだろうかと、朝葵はびくびくしながら顔を上げた。見ると桐人は腕を組み、片方の手を顎に当て、何かを考えているような顔のまま、ぴくりとも動かずにいた。
(ん?)
話しかけられる雰囲気でもなかったが、怒って黙り込んでいるようでもなかった。桐人は朝葵が視界に入っていないかのようで、朝葵が顔を覗き込んでも、目の前で手をひらひらとさせても、ちっとも反応しなかった。
(……固まってる?)
パソコンが複雑な作業にメモリを取られてしまうように、桐人は考えることに集中するあまり、他の動きを止めてしまっているようだった。この分では、呼吸をしているかどうかも怪しい。
(困ったな、どうしよう)
午後の授業が近づき、学生がちらほらと渡り廊下を通り過ぎていった。こんなところに男女が2人でいれば、多少は目立ってしまう。このままでは、桐人があらぬ誤解を受けてしまうかも知れない。しかし、こんな桐人を放って、朝葵がこの場を去るわけにもいかなかった。
(仕方ないか……)
八緒の言うとおり、朝葵に午後最初の授業は入っておらず、空き時間になっていた。桐人の予定は知らないが、この状態ではどうせ参加はできないだろう。
朝葵は一息つくと、あきらめて桐人が動き出すのを待つことにした。そして桐人の隣に立ち、桐人が気にしないことをいいことに、遠慮なく観察をし始めた。
(背、高いなあ)
桐人は背を少し丸めてはいるが、それでも朝葵の頭は、桐人の胸くらいにあった。肩幅は意外に広くて、そのためにやや厳つく見える。癖のある長めの黒髪と、色白の肌からは、普段あまり外に出ないのだろうと思われた。
――あの人、人嫌いなの。
桐人の切れ長の目は、睨んでいるように見えることもあるのだろう。ゼミ見学の日の様子からも、桐人が愛想のいいタイプとは思えない。
(でも……)
何を考えてかはわからないが、桐人は自ら首を突っ込んで、朝葵を助けようとしてくれたのだ。八緒は強引だったし、傍目によっぽど朝葵が困って見えたのかもしれないが、それは『人嫌い』の行動ではない。
(優しい人に、見えるけどなあ)
美人だが、逃げ出したくなるような怖さを持った八緒と違って、笑顔を見たこともない桐人のそばの方が、朝葵はずっと落ち着いた気持ちでいられた。考え込むと固まってしまうという、この桐人の無防備さも、朝葵にとってはなんとなく好ましく思えた。
「……あっ」
そうしていると、桐人が声を上げた。フリーズ状態が終わったらしい。桐人は時計を見ると、額に手をあてて「しまった」とつぶやいた。そして、頭をかきながら、恥ずかしそうに謝った。
「すまない。俺、止まっていたんだろう」
「いいえ、大丈夫です」
朝葵はにっこりと笑った。桐人はちょっと驚いた顔をしたが、やがて目元の鋭さがゆるみ、ほっとしたように見えた。朝葵は、桐人が手に持った封筒を指さした。
「先輩、その件なんですけど……」
「ああ、そうだな」
「もしお時間があれば、テラスで少しお話ししませんか」
◆
朝葵と桐人は、テラスにあるテーブルに向かい合って座っていた。張り出した屋根のおかげで渡り廊下よりはずっと涼しく、二人は落ち着いて話をすることができた。
「自己紹介がまだだったな。俺は久万桐人。3年生だ」
「私は吉良朝葵、2年生です。よろしくお願いします」
朝葵がぺこりと頭を下げると、桐人も軽く頭を下げた。桐人はペットボトルの水を一口飲むと、朝葵に尋ねた。
「越名さんとは、もともと知り合いなのか?」
「いえ、越名先輩とは面識ないです。この間の見学の日が初めてです」
「そうか。じゃあさっきのは、やっぱり、いきなり誘われたのか」
桐人は眉をひそめ、難しい顔をした。
「そうなんです……。越名先輩って、いつもあんな感じで人を誘われるんですか?」
「俺が知っている限りでは、あそこまで強引なのは初めてだな。まあ、俺は先輩と親しいわけじゃないから、プライベートはわからないが」
「まあ、そうですよね……」
二人は、テーブルの上に置かれた封筒に目を落とした。
「とりあえず、これを開けてみるか」
「はい」
桐人は丁寧な手つきで封筒を開け、中から一枚の紙を取り出した。淡い水色で縁が彩られ、朝顔が描かれた夏らしい一筆箋には、達筆で県北部の住所が書かれていた。朝葵たちは、スマホで地図を確認した。
「……うーん、確かに山の方ですね」
「ここは、車でないと行きづらいだろうな。集落はあるみたいだが、そんなに大きくないようだし」
「でも私、車持ってないので……。バスがあればいいんですけど」
「レンタカーを借りた方がいいんじゃないか?」
「いえあの、免許も持ってないんです……」
朝葵は、少し恥ずかしくなったのをごまかすように、えへへと笑った。自動車免許を取るにも、まとまったお金がいる。それこそ、この夏のアルバイト代で目標額が貯まったら……と考えていたところだったのだ。
「車を借りるのは俺がやるし、運転も俺がすればいいだろう」
「えっ」
朝葵が驚いて声を上げると、桐人はきょとんとした顔をした。そこで、朝葵はそもそもの話を思い出した。桐人はまだ、一緒に行ってくれる気でいるのだろうか。
「あの、その話ですけど……、本当にいいんですか。私が勝手に言い出したのに」
桐人は、まだ不思議そうな表情でいたが、ほどなく「ああ」と言うと、朝葵の遠慮に気づいたようだった。
「いや……、俺の方が、勝手に口を出したわけだから……。君こそいいのか。俺みたいなのがついてきても」
「先輩がご迷惑でなければ、私は来ていただいた方が嬉しいです」
朝葵が正面からきっぱりと言うと、一瞬だけ、桐人の頬にさっと赤みがさし、桐人はふいと目をそらした。
「わ、わかった」
「ありがとうございます、久万先輩。あ、そうだ。レンタカー代とガソリン代は、私が支払いますね」
正直言うと出費は痛いが、夏のアルバイト代があるので、生活するのには問題ないだろう。自分の蒔いた種なので、免許が遠ざかるのは仕方がない。
「いや、その必要はないぞ」
「いえ、そんなわけには……」
ぶんぶんと手を振る朝葵に構わず、桐人は八緒の封筒の中から何かを取り出した。中から出てきたものを見て、朝葵は息を呑んだ。
「……5万ある。2人分の車代としては、十分すぎるくらいだ」
朝葵の背に、冷たいものが走った。八緒のふるまいや服装から、実家が財産家なのであろうということは想像がつくが、それにしても、学生一人呼ぶのに高すぎやしないだろうか。これなら、あの山の中でも、最寄り駅からタクシーを使って行くことも余裕だろう。
「そんな……、どれだけ……」
学生にとってはかなりの大金であるが、朝葵には嬉しいとは思えなかった。むしろ、八緒の朝葵に対する執着が恐ろしく、今すぐ投げ捨てるか、燃やしてしまいたいような気持ちに駆られた。
桐人は、札を押し込むように封筒に戻し、それをひらひらと掲げた。
「……レンタカーとかは俺が手続きするから、この金はいったん俺が預かっておく。いいか?」
「……はい」
朝葵がこくりと頷くと、桐人も頷いた。それから桐人は、スマホを握りしめたかと思うと、じっと黙り込んだ。
またしばらく固まってしまうのではないかと、朝葵は心配になったが、桐人は動きを止めてしまうことはなく、どちらかと言えばそわそわと落ち着かない様子だった。そして、少し目を閉じたあと、ためらいがちに口を開いた。
「ええと……悪いけど……、連絡先だけ教えてもらえるか。当日までに、もう少し相談することもあるだろうから」
朝葵は、「あ」と驚いた。どうやら桐人は、女の子である朝葵に連絡先を聞かないといけないことに困っていたようだった。朝葵は肩をすくめてふふっと笑い、自分のスマホのアプリ画面を開いた。
「もちろん大丈夫です。私の方からお願いしないといけなかったのに、すみません」
朝葵がそう言うと、桐人は頭をかきながら、はにかんだように笑った。意外にも穏やかで優しいその笑顔に、朝葵の目は思わず惹かれた。
(この人、やっぱり優しい人なんだろうな)
連絡先を交換すると、桐人は、細かいことはまたメッセージを送ると言った。その日は日程だけを決め、朝葵と桐人は、それぞれ次の授業へと向かっていった。
ここまでお読みいただいてありがとうございます。次のお話も、引き続き楽しんでいただければ幸いです。




