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山肌の家  作者: 梨花むす
2/12

2 渡り廊下

 朝葵は、テラスにいる桐人のところに向かうため、渡り廊下を歩き続けていた。昼の太陽は廊下のコンクリートの大部分を真っ白に光らせていたから、朝葵は屋根の影になっている端の方へと寄って歩いた。


(相変わらず、暑いな……)


 朝葵はまた、1年前のことを思い出していた。


 ゼミ見学の日、朝葵はどうやって研究室から外へ出たのか覚えていない。気がついたら、シャツにしみ出すほどびっしょりと汗をかいていて、スマホのメモは入力が途中のままだった。何をされたわけでもないけれど、身体には八緒への恐怖だけが残っていた。


 朝葵たちの大学では、夏休み後に、最初のゼミ希望調査が行われる。ゼミ見学の直後、朝葵は叶に、このゼミに行くのをやめると言った。しかし、翌日学校に来た叶に「一緒に頑張ろうよ」と説得されたことと、次第に生来の呑気さからか、「考えすぎかな」と思えてきたこともあって、結局志望は変えないことにした。

 それに、八緒は4年生だ。朝葵がゼミに入る翌年には、すでに卒業しているはずだった。


 ゼミ見学から数日経ったある日、朝葵は1人で渡り廊下を歩いていた。正午近くの太陽があまりにまぶしく、うつむきながら足を進めていた朝葵は、ふと後ろから声をかけられた。

 振り返ると、廊下の先には女性がいた。その長い黒髪とたおやかな立ち姿で、朝葵はそれが誰だかすぐにわかった。


 ――越名八緒。


 間違えようもなかった。朝葵は、びくりとして足を止めた。


(うわ……)


 正直、会いたくなかった。そんな朝葵の心中とは裏腹に、八緒は微笑み、朝葵の方へと近づいてきた。夏の暑さで、朝葵の額にはいくつもの汗が流れているのに、八緒の人形のような肌には、汗の玉ひとつ浮かんでいなかった。ローズレッドの唇がおもむろに動いて、朝葵の名を呼んだ。


「朝葵さん、こんにちは。前にゼミにいらしたわね」


(あ、朝葵さん!?)


 朝葵は、慣れない呼ばれ方に面食らった。朝葵を下の名前で呼ぶのは、家族か叶のように、よっぽど仲の良い友達しかいない。社交的な朝葵ではあるが、そのあたりは付き合いの深さによって一線を引いている。

 八緒とは、初対面のときも挨拶程度しか言葉を交わしていない。それなのに……と、朝葵は気味の悪さを感じた。できれば今すぐに踵を返し、走り去ってしまいたかった。


「は……はい。……こんにちは、越名先輩……」

「うふふ、そんなに、かしこまらないで」


 八緒は手を口に当て、くすくすと笑った。


「お会いできてよかったわ。あなたにお話ししたいことがあったの」


(わざわざ、私に?)


「なんでしょう……か?」

「試験が終わったら夏休みでしょう。休みに入ったら、ぜひ私の実家に遊びにいらしてほしいの」

「へえっ?」


 思わず、朝葵は変な声が出た。朝葵たちの大学は地方にあり、下宿を利用している学生は多い。朝葵もそうであるし、おそらく八緒も、普段は学生用のアパートなどを借りているのだろう。大学の夏休みは長いので、その間実家に帰省するのは普通だ。友人同士が互いの実家を行き来するのも珍しくはない。

 しかし、会って2回目の後輩を、いきなり実家に呼ぶのはどうだろうか。


「先輩のご実家、ですか?」

「ええ、山奥で申し訳ないんだけれど、県内だからそんなに遠くはないわ」

「あの……、ゼミのみなさんとかで、集まるんでしょうか?」

「いいえ、お誘いしているのは、朝葵さんだけよ」


 そう言うと、八緒は悪びれる様子もなく微笑んだ。


(いや、いやいやいや。なんで私!?)


 朝葵の脳裏に、見学の時に話した先輩の言葉が蘇った。


 ――吉良ちゃん、よっぽど越名さんに気に入られたんじゃないの?


(何もしてないのに、気に入られる意味がわかんないよ!)


 ――越名さん、寂しいのかもね。


(それでもおかしいでしょ!)


 こんなときに限って、八緒のまわりには誰もおらず、渡り廊下を通る学生もいなかった。朝葵は、顔が引きつるのを必死に我慢し、何とか声を絞り出した。


「いえ、その……、私、貧乏学生でして。夏休みはアルバイトの予定が詰まっていまして……。残念なんですが……」


 いくぶん盛ってはいるが、嘘でもない。朝葵の実家はあまり裕福ではないので、稼げるときに稼ごうと、朝葵は夏休みにアルバイトの予定を多めに入れていた。


「まあ、そうなの」


 八緒が眉をひそめて気の毒そうに言ったため、このまま引き下がってくれるかと朝葵は安心しかけた。しかし、その期待は、次の言葉で裏切られてしまった。


「でも、一晩でいいのよ。送り迎えもこちらでさせていただくわ」


(しかも泊まるの!?)


 八緒は一歩朝葵に近づき、朝葵の手を取った。涼しげな顔とは対照的に、八緒の手はしっとりと濡れているような感触をしていた。八緒は、朝葵の手に細長く白い指を絡みつかせると、じっと朝葵を見つめて言った。


「ね、私、あなたと一緒に過ごしたいの。朝葵さんは、何も気にせず家に来てくださったらいいのよ」


 蛇に睨まれた蛙、とはこういう状態を言うのだろうか。朝葵の心は焦るばかりで、手を振りほどき、「行きません」と言いたいだけなのに、声がどうしても出てこなかった。


 その時、朝葵と八緒の上に人の影が落ち、上から声が降ってきた。


「越名さん、後輩を無理に誘わないでください」


 いつの間にか、朝葵たちのそばに男子学生が立っていた。やせ型で背の高いその学生は、あからさまに八緒に非難の目を向けていた。


(あの先輩だ)


 ゼミ見学の日、『人嫌い』と言われていた男子学生である。立った姿は初めて見たが、朝葵が思っていたよりもずっと長身だった。小柄な朝葵だけでなく、女性にしたら背の高い方であると思われる八緒よりも、頭一つ分は高かった。


「あら……、久万くんじゃないの」


 八緒は、桐人を見上げて言った。顔は微笑みを湛えたままだったが、その瞳には一瞬、深い闇のような暗さが漂ったように見えた。八緒の気が逸れて手の力がゆるんだのを感じ、朝葵はさっと手を離して後ろに回した。


「無理だなんて、人聞きが悪いわね」

「本人が行きたくなければ、無理ですから」


 桐人はにべもなく言った。朝葵が見たところ、桐人はおそらく3年生だ。それが同じゼミの先輩である4年生の八緒に、こんなぞんざいな口をきいてもいいものなのだろうか。桐人が八緒と朝葵の間に割って入る形になり、二人のやりとりを傍らで聞いている朝葵は、内心はらはらとしていた。


「私は朝葵さんと話をしているのよ」

「じゃあ、もう話は終わりです。彼女がこれ以上話したがっているとは思えませんし」

「まあ、ひどいことを言うのね」


 八緒は桐人を恨みがましそうに睨めつけたが、桐人は意に介さず朝葵の方を向き、手で払う仕草をした。


「君、もう行ったらいい。この人には俺が話しておくから」

「え、その、ええと……」

「あら、行かないで」


 桐人の申し出はありがたいが、このまま二人を残して去ってしまってもいいものか、朝葵は逡巡した。人気者の八緒を怒らせたら、大学にいづらくならないだろうか。桐人の、ゼミでの立場も気になる。波風を立てないようにこの場をおさめるには、いったい自分はどうしたらいいのだろうか。


「授業の準備もあるだろう。早く行け」

「あら、休み時間はまだあるわ。それに、次は空き時間のはずよ」


 二人に挟まれながら「行け」「行かないで」と言われ続け、朝葵は頭が混乱してきた。そして、気がつけば、とんでもないことを口走っていた。


「く、久万先輩と一緒だったら行きます!」


「は?」

「まあ」


 予想外の朝葵の言葉に、桐人はぽかんと目を丸くして、朝葵の顔を見つめていた。朝葵は、自分の背からどっと変な汗が出るのを感じた。自分の言った言葉の意味をじわじわと理解するにつれ、顔が熱く火照ってきた。


(何を言ってるの、私)


 図々しくも、助けに入った桐人を巻き込んでしまった。これでは、朝葵も八緒のことをとやかく言えやしない。

 八緒も少し驚いた表情をしていたが、やがて桐人と朝葵のことを値踏みするかのような目で見ると、可笑しそうに笑った。


「ふふ……、それなら、二人で一緒にいらっしゃいな」


 八緒は、優雅な手つきでバッグを開き、ひとつの封筒を取り出した。


「これが、私の実家の住所よ。お日にちはいつでもいいわ。二人で決めてちょうだい」

「先輩、まだ、俺が行くと決まったわけじゃ……」

「あなたが来ないと、朝葵さんは来てくださらないんだもの。私は別に、朝葵さんが一人でいらしてもいいのよ?」

「う……」

「決まりでしょう?」


 そう言うと、八緒は桐人の手に封筒を押しつけ、微笑んだ。


「楽しみにしているわね。では、ごきげんよう」


 八緒はスカートを翻し、朝葵と桐人を残して校舎の方へと歩き出した。しかし、数歩進んだところで足を止め、朝葵たちの方に振り向いた。


「そうそう、朝葵さん」

「え、はい!」


 まだ頭が混乱している朝葵は、急に名前を呼ばれ、びくっと肩をふるわせた。八緒の、ローズレッドの唇が動いた。


「どうぞ、私のことは八緒と呼んでちょうだい。遠慮なさらないで……ね」


 八緒の声は、先程の手と同じように、じっとりと絡みついてくるような気がした。朝葵は何も言えず、八緒が校舎の中に姿を消してしまうまで、ただ立ちつくしていた。

ここまでお読みいただいてありがとうございます。次のお話も、引き続き楽しんでいただければ幸いです。

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