10 座敷 後編
(動かなきゃ……)
あれが、こちらの座敷に入ってきてしまう。気づかれる前に、座敷の外に出なければ。あれに捕まったら、自分たちはどうなってしまうんだろう。
それなのに、朝葵は足に力が入らなかった。腰から下が、自分のものではないようだった。
そうしている間にも襖は開いていき、畳の擦れる音が、直に耳に届いた。背中に汗がたらたらと流れているのがわかる。その汗が畳に落ちて、ぽとりと音を立ててしまったりしないだろうか。
朝葵が失敗すれば、桐人も無事ではすまないだろう。巻き込んだ朝葵を怒りもせず、ここまで付き合ってくれた桐人が……。
――これ以上、先輩に迷惑かけられない。
そう思い、歯をぐっと食いしばると、少し力が戻ってきた気がした。朝葵は震える腕で身体を支えながら、徐々に身体を廊下へと出していった。
朝葵が足まで出てしまうと、いつの間にかにじり寄っていた桐人が、慎重な手つきで木戸を閉めた。壁のほうまで身を寄せたとき、朝葵は止めていた息を一気に吐き出した。
「はあっ……」
「……頑張ったな」
桐人は、そっとささやいた。低く、こんなときでも穏やかな声。朝葵はどさりとへたり込み、もはや腰が抜けてしまったように動けなかった。
(ああでも、こっちに出てきたらどうしよう……)
今のうちに、もっと遠くまで逃げるべきかもしれない。しかし、朝葵の腰が抜けているのがわかるのか、桐人は何も言わず、そのまま暗がりの中に座っていた。
とうとう木戸の向こうから、畳が擦れる音が聞こえてきた。心なしか、動きが激しくなっているように思える。
ばさ、ばさ
座敷の中で、布団をめくるような音がした。あそこには、自分たちの服を着せた枕がある。
どさっ……、どさっ……
布団を叩くような、鈍い音が響く。あれは、いったい何をしているのだろう。いつこっちにやってくるかと恐ろしくて、朝葵の身体はずっと細かく震えていた。
……永遠とも思える、長い時間が過ぎた。布団を叩くような音はしばらく続いていたが、やがてぴたりとやんだ。
……ぎゃっ
ずる、ずずず、ずずずず……
小さな鳴き声のようなものが聞こえ、そのあとに、重い物を引きずるような音が続いた。畳がにぶく擦れる音が、廊下にまではっきりと聞こえてくる。その音が木戸のそばまでやってきたとき、朝葵は、とうとう戸が開いてしまうのだと総毛立った。
ずずずず……
しかし、それは次第に遠ざかり、かすかになっていく。
(帰っている……?)
どうやらあれは、来た道を戻っているようだ。朝葵の座敷から縁側に出て、庭へと……。
やがて、まったく音が聞こえなくなった。暗闇の中、耳が痛くなるほどの静寂が訪れた。
(これで、終わったのかな……)
朝葵は、一気に身体の力が抜けた。そこで、意識を失った。
◆
「こら、そろそろ起きろ。寝ないって言ってただろ」
朝葵は、あきれたような桐人の声で目を覚ました。目の前に桐人の顔があり、遠慮がちに肩を揺すっている。
「え、あれ」
「まだ眠いなら、車の中で寝ればいいから。とりあえず、帰る準備をするぞ」
朝葵はいつの間にか、廊下の壁にもたれて眠っていたらしい。窓の外は、明るくなり始め、鳥の鳴き声も聞こえてきていた。
「す、すみません」
「急がせて悪いが、あまり長居はしたくないからな」
腕時計を見ると、5時半を過ぎていた。桐人は朝葵の目がしっかり開いたことを確認すると、自分の座敷へと入っていった。朝葵も慌てて、自分の座敷の木戸を開けた。
「わ……」
奧の障子戸は、やはり大きく開けられていた。雨戸もそのまま開けっぱなしなので、朝葵の座敷からは、そのまま中庭が見通せる。朝葵は、昨日の黒い塊が気になって、中庭のほうへと近づいた。
屋敷に囲われた中庭はさほど大きくはなく、迫り来る急勾配の山の斜面に押しつぶされるような、いびつな形をしていた。申し訳程度に低木が植えられ、かろうじて庭園の形にしてはあるものの、手入れがされていないのか、雑草がそこかしこにはびこっている。
(来るときの階段は、整備されていたのにな)
よく見れば、屋敷も古びていて、瓦屋根などには修繕が必要そうな場所もある。太陽の光の下では、庭の奥に黒い塊など見えなかった。
朝葵はほっとして、障子戸を閉めて座敷のほうへと向き直った。朝葵が指一本触れていない布団は、掛け布団が飛び、敷き布団は皺くちゃになっている。昨晩はやはりここに何かがいたのだと、朝葵の背筋はぞくっとした。
(やだやだ。早く荷物をまとめよう)
リュックも投げ出されていたが、中身は手つかずだった。リュックの中身を整理しながら、朝葵は昨日、枕に着せた服のことを思い出した。朝葵は襖の近くに寄り、桐人に声をかけた。
「先輩、あの、服を取りたいので、開けてもいいですか?」
「ああ、別に開けてもらっていいんだが……」
ためらいがちな桐人の声を不思議に思いながら、朝葵は襖を開けた。
「えっ……」
桐人は、すでに荷造りを終えていた。異常なのは、桐人の布団だった。乱暴にめくられているのは朝葵と同じだったが、中の枕が2つとも、ズタズタに切り裂かれていたのだ。
「なんですか、これ……」
朝葵がそばに寄って見てみると、枕に着せた朝葵の服も桐人の服も、どちらも穴だらけになっていて、隙間からは枕の綿がはみ出している。
どうしてこんなことに、と思った瞬間、朝葵は桐人の言葉を思い出した。
――一応、身代わりだ。
その意味を理解したとき、朝葵の目から涙がこぼれ出た。急にぽろぽろと泣き出した朝葵を見て、桐人が焦った声を出した。
「す、すまない。ここまでになるとは思ってなかったから。大事な服だったのか?」
「違いますう……。服のことじゃないです」
「え?」
「先輩、身代わりって言ってましたよね。だったら、私たちがこうなってた可能性があったってことなんですよね」
「うん……」
桐人は、申し訳なさそうに頭をかいた。違う。桐人が謝ることなどない。
朝葵は、ぐしゅぐしゅと鼻をすすりながら、涙としゃっくりを何とかこらえた。そして、ぐっと桐人の目を見た。
「危ない目に遭わせて、すみませんでした。助かったのは先輩のおかげです。ありがとうございます」
「……顔、拭いていいぞ」
「大丈夫ですう。……その服、一応持って帰ります。頑張ってくれたんで」
朝葵が、シャツの袖で涙を拭いながら言うと、桐人は「そうだな」と微笑んだ。朝葵は枕から服を剥ぎ、自分の座敷にもどって、リュックにそれをしまった。
「さあ、先輩、帰りましょう」
「ああ」
桐人と朝葵は、玄関を目指して廊下を進んだ。来たときには迷路のようだと思った回廊も、実のところそこまで複雑ではなかった。
見覚えのある玄関まで来たとき、朝葵はふと気づいた。八緒は、今どうしているのだろう。こんな早い時間だから、まだ寝ているとでもいうのだろうか。
(てっきり、玄関で待ちぶせされていると思ったんだけど)
昨晩の八緒は、言わなくとも朝葵たちの行動を把握し、常に先回りをして動いていた。朝葵たちが帰ろうとしていたら、きっと目の前に現れて、挨拶くらいはしそうなものだ。
しかし、今の玄関はがらんとしていて、人の気配はない。靴は来たときのままに置かれていて、あっさりと外に出ることができた。朝葵はきょろきょろと周りを見回したが、誰かが隠れている様子もなかった。
どうも、拍子抜けだ。確かに桐人は「ここを出る」と宣言したが、八緒はこのまま、朝葵たちを見逃してくれるつもりなのだろうか。
「久万先輩」
「なんだ」
「もしかして、八緒さんって……、この家にいないんですかね」
桐人は、家のほうを振り返り、眉根を寄せた。
「……どこかにはいるのかもしれないが、出てこれないんだろう。出てこれるなら、とっくに俺たちの前に現れているはずだ」
「そうですよねえ」
八緒は、何かの理由で出てこないのだろう。でも、自分たちが帰れるなら、そんな理由はどうだっていい。
八緒が命令をやめたのか、今は、あのいやな視線も感じなかった。纏わり付いていたうっとうしい糸が切れたようで、朝葵は久々に身体の軽さを感じた。
ひどく緊張していたし、床で座ったまま寝てしまったからか、あちこち身体が痛い。しかし気分はすがすがしく、朝葵は大きく伸びをした。
そうしているうちに、桐人は門のかんぬきを外し、扉を押し開けようとしていた。
「ああっ、すみません」
朝葵は慌てて駆け寄り、桐人と一緒に扉を押した。重い音を立てて、扉は大きく開いた。
「さあ、山を下りるぞ」
ここまでお読みいただいてありがとうございます。次のお話も、引き続き楽しんでいただければ幸いです。