1 教室
以前に出した「ラジオミサキ」「どうして私は降ろされた」の続編となります。よろしくお願いいたします。
「ねえ、知ってる? あの人さあ、この間ね……」
「私も聞いたー、それ」
「やばくない? 言ってあげた方がいいんじゃない」
吉良朝葵が、机でのうたた寝から目を覚ますと、ゼミの研究室内では噂話が始まっていた。
「やだー、あははは」
甲高い笑い声が響く。ここは、大学の研究室だ。朝葵が所属しているのは文系のゼミで、教授が気さくで学生のまとまりがいいためか、休み時間は雑談で盛り上がることも多い。
朝葵はそっとイヤホンを取り出すと、耳に入れた。おしゃべりはいいが、噂話はあまり好きではなかった。スマホを操作し、いつもより少し大きめの音で動画を流すと、YouTuberの楽しげな笑い声が耳に入ってきた。
(少ししたら、外に出よう)
起きたときに、さっと出て行けばよかったのだろうが、なんとなくタイミングを逸してしまった。自意識過剰かもしれないが、今出て行くと、彼女たちに文句をつけているようにみえるかもと不安になる。
まだ、昼休みは半分以上残っている。こんなときに限って、友人の望月叶は「推しパンの新商品が出る」とか言って、外のコンビニに出てしまった。推しパンの意味はわからなかったが、面倒くさがらないで一緒に出ればよかったと、今さら悔やんでも遅い。
「信じらんない。そんなことするー?」
朝葵の期待は外れ、彼女たちのしゃべり声は動画でかき消されなかった。聞くまいと思うほど、その噂話はイヤホンを貫通し、頭まで刺さってくるようだった。
(あー……)
限界だ。叶にメッセージを送って、電話をかけてもらおう。そう思って、朝葵はアプリを開いた。
(あれ)
アプリには、新しいメッセージが届いていた。簡潔な、用件だけの内容。
『この前の資料の件』
『直接説明した方が早いから、空いてる時間を教えてほしい』
(先輩だ)
久万桐人。1学年上の先輩で、朝葵はよく世話になっている。朝葵は動画を止めてイヤホンを外すと、急いでメッセージを打った。
『ありがとうございます、了解です!』
朝葵が送信すると、すぐに既読がついた。ちょうど、桐人もスマホを開いているのだろう。朝葵は少しためらったが、重ねてメッセージを送った。
『すみません』
『今、電話をかけてもいいですか?』
すぐにまた既読がついたかと思うと、突然朝葵のスマホが鳴り出した。桐人からの着信だった。
よくある呼び出し音に反応し、噂話をしていた学生たちが話を止め、朝葵の方を見た。朝葵はスマホを取り落としそうになりながら、慌てて電話に出た。
「はい、吉良です」
「久万だけど……、どうした?」
「あ、今研究室にいるので、そちらにうかがいます……。先輩、どこにいらっしゃいます?」
朝葵は話しながら立ち上がり、扉のほうへと向かった。学生たちはちらりと朝葵を見るも、すぐに興味を失い、自分たちのおしゃべりに戻っていった。
朝葵が廊下に出ると、スマホから戸惑った桐人の声が聞こえた。
「研究室にいるんだろ? 俺が戻るぞ」
「いや、もう、出ちゃったんで、はい。私が向かいますんで、大丈夫です」
「……わかった。テラスにいるから」
テラスは、本館の食堂脇にある。朝葵が今いる校舎からは、5分もあれば着くだろう。桐人との通話が切れると、朝葵はテラスへと急いだ。
渡り廊下を、夏の日差しが容赦なく照りつけていた。朝葵はまぶしさに目を細める。天気予報では、今日も30度を超えるという。今年の夏も、猛暑が続くのだろう。
――あの日も、今日みたいに暑い日だった。
1年前の夏、ゼミの見学に来た朝葵はすっかり緊張していた。教授は、「交流を深めてね」と言って、見学に来た2年生を研究室に案内すると、ゼミ生の中に放り込んで、自分はさっさといなくなってしまった。
サークルなどで顔を合わせたことのある者どうしは、すぐにグループを作って仲良く話し始めた。しかし、朝葵はゼミに知り合いがおらず、叶もその日は休んでいたから、きょろきょろと顔を動かして、話しかけられそうな先輩を探していた。
そうしていると、1人の女性に声をかけられた。
「あなたはひとり?」
その人は、研究室の中でも目立っていた。朝葵が部屋に入ってきたときは背を向けて座っていたが、それでも腰まである長い黒髪が目を引いた。朝葵たちの挨拶で振り返った顔は、日本人形のように色白で整っていて、テレビや映画で見る女優さんより美人だと思った。
2年生たちは皆、ちらちらと彼女を気にしてはいたが、彼女は座ったまま微笑んでいるばかりだったので、誰も声をかけられずにいたのだった。
「私は、4年生の越名八緒よ。よろしくね」
「に、2年生の、吉良朝葵です。よろしくお願いします」
朝葵がぺこりと頭を下げると、八緒は「かわいいわね」と言い、艶然と微笑んだ。褒められたはずなのに、朝葵はなぜか背筋がぞくりとした。
八緒が口を開いたことで、学生たちは朝葵たちに注目していた。朝葵は皆の視線でいたたまれず、助けを求めるように周りに目をやった。
(誰か……)
朝葵が研究室の隅の方に目を向けたとき、一人の男子学生と目があった。その人はゼミ生のようで、自身のらしき机に肘をついて座っていた。他の学生たちが好奇の色を隠さず八緒と朝葵を眺めている中で、その人だけが、朝葵を気遣うような目をしていた。
朝葵は思わず助けを求めようと、彼に向かって口を開いた。
「あ……」
男子学生も腰を浮かせ、何かを言いかけたのだが、そのとき、朝葵と八緒の間にどやどやと他の学生が入り込んできた。
「初めまして、僕、~と言います」
「私は~です」
朝葵のそばにはどっと人が集まり、次々に八緒に挨拶をし出した。特に男子は、八緒と話せるチャンスを逃したくなかったのだろう。あっという間に八緒は学生に囲まれ、朝葵のほうが押し出されて、輪からはみ出してしまった。
(あー……、緊張した……)
朝葵がほっと一息をつくと、ゼミ生の女子学生たちが声をかけてくれた。
「吉良ちゃんだっけ? お疲れさま」
「越名先輩、人気だからねえ」
「大変だったね。でも、うちのゼミ嫌にならないでね」
「大丈夫です」と朝葵が笑って言うと、人の良さそうな先輩たちは、朝葵を椅子に座らせ、お茶を入れてくれた。朝葵がカップを受け取ると、そこから会話が始まった。人と話すことが好きな朝葵は、あっという間に先輩たちと打ち解けた。
「吉良ちゃんは、このゼミが第一希望?」
「そうなんです」
「えー、嬉しいな。来年待ってるよ~」
「えへへ……、来れたらありがたいんですけど……」
朝葵は、ちらっと八緒の方を見た。八緒は変わらず、学生たちに囲まれていた。男子学生だけでなく、女子学生も八緒をうっとりとした目で見て、その言葉に耳を傾けている様子であった。
「……ここ、人気高いと思うんで……」
朝葵の成績は悪くはないが、格別良いというほどでもない。競争相手が多くなれば、限りある枠の中に入れる自信はない。朝葵の言わんとすることを察し、先輩の一人が笑って、手を振りながら否定した。
「大丈夫よ。越名さん目当ての学生は、うちのゼミに入れないから」
「え、そうなんですか?」
「そうよ。うちの教授、そういうことには厳しくてね。不純な動機の学生はみんな落とされるの」
「へえ~……」
「ま、ここだけの話だけど、私たちだって報告するしね」
先輩たちは、あはは、と顔を見合わせて悪戯っぽく笑った。
「だから、吉良ちゃんは大丈夫よ。安心して入っておいで」
「ありがとうございます」
朝葵はなるほど、と思った。どうやら教授は、学生の素のふるまいを観察するために姿を消したらしい。『ゼミの雰囲気がいい』という評判の理由がわかる気がした。
朝葵がお茶を一口飲んだとき、後ろからふと視線を感じた。振り向くと、先程の男子学生が朝葵の方を向いていたが、すぐに顔をそむけてしまった。
(さっきの……)
男子学生は、細身で骨張った体つきをしていて、座っていてもわかるくらい背が高い。本人も気にしているのか、やや猫背気味になっていた。誰とも話さず、不機嫌そうにひとりで研究室内を眺めているようであるが、その理知的な瞳が存外に優しげに見えるのが、朝葵は気になった。
さっきは、やはり自分を助けてくれようとしたのだろうか。朝葵はなんとなく、今も自分を心配して見てくれていたのではないか、と思った。
「吉良ちゃん、久万くんと知り合い?」
「へ」
「なんか、さっきも久万くんの方見てなかった?」
「もしそうなら、すんごい意外なんだけど」
先輩たちが、不思議そうに朝葵の顔を覗き込んでいた。朝葵は、自分がいつの間にか『久万』と呼ばれた男子学生を見つめていたことに気づき、顔がかあっと熱くなるのを感じた。
「い、いやいやいや、全くお話ししたことないです。偶然です」
「そうかあ、まあでも、そうだよね」
「久万くんに、こんな可愛い女の子の知り合い、いるわけないよね」
先輩たちは、すぐに引き下がり、勝手にうんうんと納得してくれた。朝葵は先輩たちの『久万』に対する言い方が気にかかり、彼女たちに尋ねた。
「あの方、久万先輩っておっしゃるんですか」
「そうだよ。久万……、下は桐人だったかな。あの人、人嫌いなの」
「人嫌い?」
「そう、だって今でも、誰とも喋らないでしょ。孤独が好きなタイプなんだと思うよ」
「そうなんですね……」
返事をしながらも、朝葵は納得できない気持ちでいた。あのときの心配そうな桐人の目は、人嫌いの人間のものとは思えなかった。
すると、1人の先輩が思い出したように言った。
「そういえばさ、前に教授が、越名さんのことも『孤独だ』って言ってたんだよね」
「越名さんが孤独? あれで?」
もう1人の先輩が、八緒を一瞥すると言った。八緒はいまだ、たくさんの学生に囲まれて美しく微笑んでいた。朝葵には、八緒の交友関係は知るよしもないが、あれなら男女構わずよりどりみどりだろう。言い出した先輩も首をひねり、あっさりと同意した。
「まあ、そうだよね。教授、時々変なこと言うからなあ」
「ああ、でもさ」
そう言うと、先輩たちが揃って朝葵のほうを見たので、朝葵はどきっとした。
「珍しいんだよ。越名さんが自分から声をかけるの」
「え?」
「越名さん、ああやって話しかけられることは多いけど、自分からはあんまり話さないの」
「確かに。吉良ちゃん、よっぽど越名さんに気に入られたんじゃないの?」
「いやあ……、どうなんですかね」
気に入られている、と言われて悪い気はしないが、朝葵は、あまり八緒に近づきたいとは思えなかった。それよりは、『人嫌いの久万桐人』の方に興味があった。
「越名さん、可愛がってた後輩がいなくなっちゃったから、寂しいのかもね」
「あの子も可愛い子だったからね」
(いなくなっちゃった……?)
朝葵は、その言葉が少し気になったが、先輩たちもそれ以上話を続ける気はなかったらしく、八緒の話はそこで終わった。それから朝葵が先輩たちにゼミについての質問などをしていると、そろそろお開きの時間が近づいてきた。
朝葵は先輩たちと連絡先を交換し、帰り支度を始めた。今日休んでしまった叶にも、色々と伝えてあげないといけない。朝葵が立ったままスマホにメモをしていると、いきなり首筋をひやりとしたもので撫でられた感触がした。
(……!)
朝葵が再び視線を感じて振り返ると、今度は八緒がこちらを向いていた。ただ、八緒は相変わらず人に囲まれていた。
(ん? なんか……変な感じ……)
朝葵は、目の前の光景に違和感を覚えた。よく見ると、八緒のまわりの学生たちは、うつろな目をしていた。そして、八緒が自分たちの方を見ていないにも関わらず、パクパクと口を動かし、何かを言い続けていた。それはまるで、傀儡のようで……。
朝葵は、自分の足がかたかたと震え出すのを感じた。「どうしたの?」と尋ねる先輩の声が遠くなって、部屋の中に、八緒のローズレッドに塗られた唇だけが浮いているように見えた。
朝葵が思わず後ずさりをすると、その唇が形を変え、にいっと笑った。
ここまでお読みいただいてありがとうございます。次のお話も、引き続き楽しんでいただければ幸いです。