IL GUSTO DEL PARADISO 天国の味 III
客間のまえの廊下で兄を見送ると、イザイアは結わえていた髪を何となくもてあそんだ。
いまだ陽は高く、夕方まではだいぶ間がある。
夜はジュスティーノとすごすとしても、それまでの暇つぶしはないものかと窓の外をながめる。
廊下からは、屋敷の中庭が見えた。
きれいに芝生のしかれた中庭は、ときおり使用人が行き来する以外はだれも通らない。
ここへ来たさいに見た、ぎっしりと建物の建ちならぶ模細工のような街並みをイザイアは思い浮かべた。
港街だ。遊ぶ場所は豊富だろう。
兄が来ているあいだジュスティーノは食堂広間で時間をつぶすと言っていたが、ただの茶飲みなどあの年齢の青年には退屈なのではとイザイアは思った。
いまごろはあの従者とともに娼館へとでもくりだしているのではと推測してみる。
今夜は女遊びの土産話でも聞けるだろうか。
自室へ戻ろうかと足を踏み出したときだった。
廊下のつきあたりから、金髪の美少年然とした人物がこちらへと来るのに気づく。
レナートだ。
見覚えのない歳上とみえる男性と歩いていた。
親しげに会話を交わしているところをみると、よほど知った仲なのか。
イザイアはさりげなく立ち止まった。
口の端を上げ、レナートがこちらに気づくかをうかがう。
真顔しか見せたことのないレナートが、かたわらの男には無邪気に笑いかけている。
その様子がイタズラ心を誘った。
ややして、レナートはこちらに気づいたらしく立ち止まった。
気づかずに目のまえまで来るのを期待したが。イザイアは口角を上げた。
レナートは、それまで笑んでいた顔をスッと真顔に切りかえると、軽く睨むような目つきをこちらに向けた。
「ごきげんよう、従者殿」
イザイアはクスクスと笑いを漏らした。
ジュスティーノにすら無邪気に笑いかけるという場面は見たことのないレナートが、無防備に談笑する男。
黒髪を軽く整えた、なかなかの美男子だ。
おもしろいものに遭遇してしまったとイザイアは期待した。
暇つぶしくらいにはなるか。
「そちらの御仁は?」
レナートが答えるよりさきに、同行の男はさりげなく半歩前に進み出た。
いざとなれば庇える位置だ。
「実家で私の守役をしていた者です。どうしてもこの屋敷内では、あなたと出くわすこともあるでしょうから」
「わたしと鉢合わせしたときのためだけに呼びよせたのか」
イザイアは肩をゆらして笑った。
従者の従者とは。
なかなか傑作な話だ。
「ジュスティーノ様の許可はとってあります」
レナートが生真面目に返す。
「ざんねんだ。もし情人などであったら、あることないことお耳に入れるつもりであったのに」
「男性と関係する趣味はありません。ご自分を基準になさらないほうがよいと、島でも意見したはず」
「ああ……」
イザイアは含み笑いをした。
「接吻で蕩けたような顔をなさっていた、あのときか」
レナートの頬に赤みが射した。
「味をお気に召してくれたようで、そのせつは何より」
イザイアは唇から舌をわざと覗かせた。
同行の男はどこまでの経緯を聞いているのか。いかにも従者の待機の姿勢という感じでゆるく腕を組み様子をながめている。
「行くぞ」
レナートは男の腕をつかみ、廊下のさきへと促した。
「守役殿、お名前は?」
「答えんでいい!」
守役は名乗ろうと口を開きかけたが、レナートが強引に発言をさえぎりイザイアから引き離した。
「ジュスティーノ様さえ目を覚ましてくだされば、即座に縁の切れる方だ」
「その若君はどうされた」
イザイアは、クスクスと笑いながら尋ねた。
「あなたには関係ありません」
「いまごろ従者殿と娼館あそびでもされているかと思っていたのだが」
イザイアは守役とわざと目を合わせた。
従者の懐きようから考えても、たぶらかしたらおもしろい遊びになるだろうか。
品定めする。
「では若君はいまおひとりか。わたしの体を恋しがってはおられなかったか?」
イザイアは怒らせるのを承知でそう言った。
守役はとくに表情を変えなかったが、レナートは嫌悪感を覚えた顔をする。
「気にするな。この御仁はいつもこうだ」
レナートが守役に告げる。
「昼間からいかがわしいことを臆面もなく。ジュスティーノ様も、こんな方のどこがいいのか」
「そう真剣にとらえることもあるまい、従者殿。たまたま長く嵌まった相手がいても、ある日とつぜん飽きたりするのだ。若君とてそれはおなじであろう」
イザイアは肩をすくめた。
「ご自分とおなじと考えないほうがよいと申し上げたばかりのはずだ」
レナートが不快そうな声で言う。
「あなたとジュスティーノ様はちがう」
そう言い睨む。
「あんな情のふかい方をただ戯れでたぶらかして。少しは責任をとろうという気はないのか」
「たとえば? 若君を正妻にでもむかえろと?」
イザイアは含み笑いをした。
「おっしゃっていることがチグハグだ。従者殿の言い分では、たとえ飽きても一生離れずに添いとげろという主張に受けとれるが」
レナートはしばらく無言で睨んでいた。
ややしてから、ずいっとイザイアに近づく。
「ジュスティーノ様から離れろ。二度と会うな!」
「ことわる」
イザイアは即答した。
「いまのところは」
そうつけ加える。
「まあ、わたしのような者のところに若君を送りこんでしまった神にでも文句を言うのだな」
「この背徳者が!」
レナートが廊下に響くような声で怒鳴る。「行くぞ」と続けて守役の腕を引いた。
「守役殿」
イザイアがそう声をかけると、守役は腕を引かれながらこちらを向いた。
「よろしければ、のちほどわたしの部屋にでも」
レナートがふり向く。
守役までをも標的にされるとは思わなかったのだろうか。眉間にキツくしわをよせる。
まだまだ人の行動の予測のあまい坊やだ。
イザイアは小さく含み笑いをした。
「かまうな。行くぞ」
レナートは守役の腕を強く引き、早足でその場を去った。
だれもいなくなった廊下のさきを何となくながめながら、イザイアは壁に背をあずけた。
教会の鐘の音が聞こえる。
どこの教会なのか。遠くからのようだが、この窓からは別棟の壁でさえぎられ街の景色は見えない。
自宅屋敷の近くの教会の鐘とも、オルダーニの本邸のあった街の教会の鐘ともちがう音色だ。
時間を知らせるタイミングではない。
礼拝か。
結婚式か、葬式か。そんなことを考えながら結わえていた髪を解く。
元修道院である隔離施設にも鐘があった。
はじめは死者が出るごとに助手たちが持ちまわりで鐘を鳴らしていたが、死者のでる頻度の高さと仕事のいそがしさとで、すぐに夕方一回だけになった。
「背徳者」
イザイアはそうつぶやいてククッと笑った。
その背徳者が淫らな遊びを楽しんでいる場にとつぜん飛びこんだジュスティーノとあの従者は、さしずめソドムの街の様子を見きわめるようつかわされた二人の御使いか。
ロトの家をとりかこみ、御使いと性交をさせろと迫ったソドムの男たちは、その後に焼き滅ぼされてしまうが。
イザイアは肩ごしに鐘の鳴る方角を見つめた。
もし男たちが御使いの体を知ったとしたら、いったいどうなっていたのか。
街中の男が集まるほどの美貌の青年の姿であった二人の御使い。
体は、天国の味がしただろうか。
奇跡のような官能と、究極に清廉な者を卑猥に堕とすはげしい快感とで、もうふつうの人間となど交われなかったのではないか。
もはやどんなに魅力的な肉体と交わっても、御使いの体以上のものを見出だすことはできなくなったのでは。
嬲ったつもりが、とりこまれたか。
鐘の音が重なるように響く窓の外を、イザイアはじっと見ていた。




