MASCHERA DELLA PESTE ペストマスク II
ペスト患者の寝かされた門口に小舟がつき、桟橋によせられる。
以前よく会っていた老人の渡し守ではなかった。
口を布でおおっているので年齢は分かりづらいが、五十代ほどだろうか。
小舟が停まるが早いか、ジュスティーノはペスト患者のいる門口に駆けだした。
「ジュスティーノ様!」
レナートが外套をつかみ引とめようとする。
背後らで羽交い締めにして、ペスト患者の近くへ行かせまいとした。
「エルモ! 手伝え!」
「ああ、はい」
エルモがジュスティーノの肩をおさえる。
「だから若様が直々に行かないよう止めておいてくださいと言ったじゃないですか、坊っちゃん」
「あれはそういう意味か!」
レナートががっちりとおさえながら声を上げる。
「エルモ! 知っていたならなぜ言わなかった!」
ジュスティーノは踠きながら叫んだ。
「だって、こうなるでしょう、若様……」
エルモが苦笑する。
「しっかりおさえていろ! エルモ」
エルモに主人をおさえさせると、レナートは手を離して息を吐いた。
「私が代わりに渡し守に確認します。そこにいてください」
レナートはそう言うと、片手で襟元を軽く整えて手近な門口へと向かった。
門口から身を乗りだす。
「渡し守!」
レナートが呼びかけると、桟橋のほうから返事が聞こえた。
「聞きたいことがある!」
ジュスティーノは、大きく肩をゆらしてエルモの腕をふり払おうとした。
エルモが思いのほか力が強くてかなわず、彼を引きずるようにしてレナートのうしろから渡し守の様子を覗き見る。
渡し守は、人夫たちに患者の乗せ方を指示をしながらこちらを見上げていた。
「隔離施設で、死亡したという医師はいるか!」
レナートが尋ねる。
「ああ……」
渡し守が、くぐもった声を上げる。
「坊っちゃん、パガーニとかいう貴族様の家の方ですがい?」
「パガーニ……」
レナートはつぶやいた。
「パガーニ家が来たのか!」
「死んだお医者さまの名前を確認しで行きましたよ」
渡し守が答える。
「やはり兄君は、確認に人を遣わしていたのか。それであのご様子だったとすると」
レナートが軽く眉をよせる。
「確定ですか……」
エルモが引きつぐように言う。あわててジュスティーノを強めにおさえこんだ。
「渡し守!」
レナートがもういちど渡し守を呼ぶ。
「パガーニ家の人間に、名前は何と答えた!」
「いやあ……」
渡し守が小舟の上で苦笑いする。
「パガーニ家のお人に、お医者さまの持ちものにある名前か紋章を確認しできてくれって言われたんだげど……ほら、隔離所のものをおいそれと持ってきでお渡しするわけにはいかないんで」
渡し守が口にあてた布のずれを直す。
「だげど俺、文字読めねえし、貴族さまの紋章はややこしぐて何の絵か説明できねえし」
「それで、どうしたんだ」
レナートは問うた。
「お名前の頭文字の形だけ覚えてお伝えしだんで」
「頭文字でいい。そこで書いてみせろ」
レナートがそう言うと、渡し守はしばらくのあいだ記憶をたどるように上を向いた。
おもむろに右腕を上げ、空中に文字を書いてみせる。
覚えていたのは筆記体の文字らしく、複雑な曲線を行ったり来たりさせる。
「I……」
エルモがジュスティーノをおさえながらそう推測する。
「I……Pですかね」
「イザイア・パガーニ」
レナートがそうつぶやいた。
その場にくずれ落ちそうになったジュスティーノを、エルモがあわてて支える。
レナートがこちらをふり向き、エルモに加勢して主人の胸元をおさえた。
「分かった。手数をかけた!」
レナートがそう言うと、渡し守は二、三度会釈をして人夫たちのほうに向き直った。
「ジュスティーノ様」
レナートが冷静な口調で声をかける。
ジュスティーノは、力が抜けた状態で石だたみの一点を見つめた。
あきらめるしかないだろうと言いたいのが分かる。
ここまで念入りに確認してくれたのは、彼の死を受け入れるしかないであろうと主人に念を押すためだ。
「信じない! 私が島に渡って直に遺体を確認する!」
ジュスティーノは涙ぐんで叫んだ。
「兄君ですら人を遣っての確認で堪えたんですよ!」
「兄君よりも私のほうが彼の体のすみずみまで知っている!」
「こんなところで、破廉恥なことを言わないでください!」
「渡し守の旦那!」
エルモがギリギリまで身を乗りだして渡し守を呼ぶ。
「いつもの爺さんはどうした」
「ああ、あの人」
渡し守が島のほうを見る。
「いるよ。渡しの用が増えだんで、渡し守の数がちょっと増えただけでさあ」
「患者は減ってないのかい?」
エルモが尋ねる。
「ちっとは減ったかな。ここんとこは、あっちがら戻ってくる人がいてさ」
患者を運んでいた人夫に何かを聞かれ、渡し守はあわてて小舟の一箇所を指さした。
「戻ってるのは旦那の助手だけじゃないのか。完治した人が出はじめたんですかね。それはそれでめでたいですが」
エルモはうつむいたまま動かないジュスティーノを伺うと、門口の縁でしゃがんだ。
「何つうか……」
エルモが島をながめてポソリと言う。
「まあ、非常識なところもありましたけど、根は悪いお人ではなかったと思いますよ。あれでもふつうの人に合わせようと一生懸命なところもあった」
鼻腔がツンと痛み、ジュスティーノは鼻と口を手でおおった。
堪えても堪えても涙がこぼれそうだ。
「……若様、旦那のおかげで命拾いした人がいると思ったら、ちょっとは気がおさまらないですかね」
エルモが、自身の大腿の上に頬杖をつく。
なだめようとしたのかレナートがこちらを見たが、彼に弱さをゆだねるのは気が引ける。ジュスティーノは顔をそらした。
「何つうか……旦那の代わりに生きて戻ってきた人がいるっていうか」
波の音が、ひときわ大きく聞こえる。
座りこんで嗚咽したいのを、ジュスティーノは必死で堪えた。
「立派なお人でしたよ。医者としては」




