IL DESTINO È IN BALIA DEL VENTO 運命は風に翻弄され I
イザイアは診察を終え、廊下を歩きながらペストマスクをとった。
ふり向いて助手に手渡す。
早足で廊下を進みながらフードマントを脱ぎ、おなじように助手に手渡した。
廊下のつきあたりを高齢の医師とその助手が横切る。
たしかパッツィ家当主の遠縁の医師と言っていたか。
すでに高齢で引退していたらしいが、隔離施設の管理にパッツィ家も関わっている義理でここに赴いたのか。
自身から志願したのであれば立派だが、半分ほどの年齢のこちらですらここのところは寝不足が堪えているのだ。
高齢でどこまで持つのか。
結わえていた髪をとき、イザイアは手櫛でほぐした。
「……先生」
私室のまえまで来ると、助手がやや声をひそめた。
「このあとは」
イザイアは宙をながめた。自身の体調と性欲とをたしかめる。
「きょうはいい。少し寝る」
「はい」
助手は会釈をすると、自身の控え室のほうへと入っていった。
ドアを開け、私室に入る。
シャツの胸元をゆるめ、イザイアはベッドに倒れこんだ。
ふう、と息をつき、毛布をかけもせず身体を丸める。
少々頭が痛い。
ペストに罹った経験がなければ感染したかと疑うところだが、これは寝不足によるものだろう。
隔離施設での診療はヴェネツィアでなんども経験しているが、疫病が入ることになれた土地なだけに、体制も整っていた。
医師の数も多く、もう少し楽だった気がする。
おおきく息を吐きあおむけになる。
窓ぎわの机に置いた水差しのなかのワインが、椅子の背もたれに赤い影を作っていた。
ジュスティーノがよこしたワインだが、気に入ってずいぶんと飲んだので残りはもうあまりないと助手が言っていた。
あの健気な若様は、ここでタイミングよくつぎのワインの樽を送ってくるだろうか。
そんなところまで読まれていたら、愛おしすぎるが。
潮の香りを感じる。
この島にいれば四六時中ただよっている香りだ。すでに意識することすらなかった。
空がうっすらと曇りはじめている。
雨がくるだろうか。イザイアはぼんやりと考えた。
疲れすぎているのか、すぐに寝入ることができない。
いつまで待っても脳が興奮状態で目が冴えていた。
薬草か薬を使ったほうがいいだろうか。そう思いながら這わせた視線が、さきほどのワインのところで止まる。
酒でいいのでは。
そう思ったが、もはや起き上がるのも面倒だ。
ワインのほうになんども指先を動かしてはやめる。
助手を呼びつけて手元に持ってこさせようかと思ったが、呼びつけるのすら億劫だ。
「……若様」
イザイアはつぶやいた。
「飲ませてくれ」
思わず口の端を上げる。
そんな召使いのようなことを頼んだら、してくれるだろうか。
服を脱いで。口移しで。
そう声にせず言ってみてから、してくれそうな気がするなと思った。
隔離施設が閉鎖される日まで待っていてくれるらしい。
帰ったら頼んでみようかと考えた。
ようやく眠気を感じて目を閉じる。
「先生」
出入口のドアがノックされた。
「急変した患者がいるとのことなのですが」
ドア越しにそうと聞こえ、うっすらと目を開ける。
横たわったままゆっくりと髪をかき上げ、イザイアは天井を凝視した。
たがいちがいに組まれた天井の古いレンガ。欠けた部分を意味もなく見つめる。
「……いま行く」
そう返事をして、しばらくのあいだなんども大きく呼吸をしていた。




