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【完結】背徳 〜サイコパス医師に堕とされた御曹司の恋〜 〘R15版〙  作者: 路明(ロア)
26.砂時計の砂が落ちる

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LA SABBIA NELLA CLESSIDRA CADE 砂時計の砂が落ちる IV

 古いレンガの壁の廊下は、明かりとりの小さな窓しかなく昼間でもうす暗い。

 長い年月をかけて建造された建物だ。

 古い建築様式の箇所と比較的あたらしい造りの箇所とがあるが、この廊下がいちばん古い部分の一つだろうかとイザイアは推測していた。


 ペストマスクのくちばしの部分につめた香草の清涼な香りが少しは眠気覚ましの助けになる。


 ふう、と吐いた息がため息に聞こえたのか、助手が様子をうかがうようにこちらを見る。

「何でもない」

 そう返して革製のフードマントの足元を軽くからげる。

 頭上にはレンガで造られたアーチが等間隔(とうかんかく)にかかり、壁とともに建物を支えている。

 ひときわがっしりと造られたアーチの下を進み、イザイアは助手とともに礼拝堂に入った。


 最奥にある祭壇のガラス窓からは昼すぎのおだやかな陽光が射し、かかげられた十字架が逆光でシルエットとなって礼拝堂を見下ろしている。


 礼拝堂には、人がやっと通れるほどの通路を空けてベッドが端までならべられ、意識が朦朧(もうろう)としたペスト患者が横たえられていた。

 ベッドが足りずソファやテーブルまで持ちこんだが、それでも小柄な者や子供は二、三人ほどいっしょに寝かされる場合もある。


「おまえはここで待っていろ。用があれば声をかける」


 イザイアは助手から診察用の杖を受けとった。

 助手を礼拝堂の入口に残し、杖でトントンと自身の肩をたたきながらベッドのあいだに空けられた通路を通る。

 自身の担当の患者が寝かせられたあたりまで行く途中、すでに死亡していると思われる患者を三人ほど見かけた。


 もとより人の死にたいしての感情は湧いたことのない性質だが、このような場所にいてはふつうの医師でも死は日常的な医療データでしかない。


 発症して何日目のどのような症状の患者が、どのような症状の経緯をたどって死にいたったか。

 性別と年齢と、感染まえの生活状況は。

 そこは分析するが、個人としての名は記録の備考でしかない。


 担当する患者のベッドが並ぶあたりまで来る。



 ベッドの一つが空いていた。



 中年の男性患者が寝ていたところだが。

 イザイアは、トントンと杖で肩をたたきながら目だけをゆっくりと動かした。

 身を乗りだし、ベッドと壁のあいだを覗きこむ。


 患者は、ベッドと壁のあいだのせまいい空間にはさまるようにして死亡していた。


 死にいたるさいの激しい痙攣(けいれん)で身体の位置が大きくずれ、ベッドから落ちたと思われた。

 あとはもう絶命を待つだけだろうと判断していた患者だ。

 死後硬直がすでにはじまっているのか、はさまれた格好のまま身体が固まっていた。


「一名死亡」


 イザイアは確認するように口にした。

 この硬直の進み具合だと、死亡したのは朝の診察の直後か。

 思っていたよりも早かった。


 すぐにべつの患者がこのベッドに運ばれて来るだろう。


 健康な者が患者につきそって島まで来るのを規制してくれと、医師たちはなんども関連の各家に請願していた。


 だが患者と運命をともにするのだと言って島に渡り、居座る者はいまだ毎日のようにいる。

 医師からすれば、いちいち患者が二倍三倍になるのだ。たまったものではない。


 イザイアはもういちど杖で肩をたたき、眠気に目を眇めた。

 さすがに疲れはたまっている。

 不出来な弟を過労死させてくれという兄上の祈りが神にでも届いたか。

 イザイアは仮面の下で唇の端を上げた。


 自身がヴェネツィアでペストに罹患(りかん)したころ、なぜか兄が医学書をあさり疫病(えきびょう)について調べていたと、あとで執事に聞かされた。

 助けられるすべがないかをさがし回らなければ、いても立ってもいられなかったのだろうと執事は言っていたが。

 おかげでパガーニ家の執務は、しばらくのあいだロクに(はかど)らなかったということだ。


 不可解なお人だと思う。


 私情で執務に支障をきたすことなどある人なのか。

 かわいらしい。


 身体をかがませ、二人めの患者の様子を見る。

 若い女性だ。 

 潰瘍(かいよう)だらけの顔に表情をうかべる力もなく、かわいた唇を半びらきにしている。


 体力の持つうちに持ち直せば何とかなるが、確率としてはひくい。


 持ち直す者とそうでない者のイメージは、(がけ)にぶら下がった様子に似ているとイザイアはイメージしていた。

 発症して数日の時点で、腕と腹筋の力をふりしぼり一気に崖から顔をだした者はたすかる。

 それがない者は、ただズルズルと谷に落ちていく。

 谷から引き上げる努力はもちろんするが、自力での持ち直しがなかった者にはムダな場合が多い。


 やがて落ち切るのを待つだけになる。


 イザイアは、担当する患者をざっと見回した。

(せき)はなし。肺ペストへの移行はゼロ」

 杖で自身の肩をたたきながら、そう口にする。

 とたんに離れた位置からゼイゼイという音のまじった咳が聞こえる。

「担当外だ」

 そう小声でひとりごちた。

 杖で女性患者の毛布を退かす。

 服をまくり首や脚のつけ根を確認し、念入りに肌の色を確認する。

 内出血を起こし肌の黒くなった部分は見あたらない。

「敗血症なし」

 イザイアはつぶやいた。



「……お医者さま(ドットーレ)



 背後から弱々しい声が聞こえた。

 ゆっくりとふり向く。

 年配の男性患者が、陽光の射す祭壇のほうに手をのばしていた。


「神様」


 男性がうわ言を言い、のばしていた手をパタッと下ろす。

 ペストを発症した娘についてきた者だったか。

 娘はきのう亡くなったが。

 イザイアは祭壇のガラス窓を見上げた。

 射しこんでいる陽光はけっして強くはないが、熱でうなされている者には刺激が強いのかもしれない。


「神か、御老人」

 イザイアはペストマスクの下で口の端を上げた。



「わたしの愛しい若様のところへも、いまだ来られないらしい」



 はじめて組みしいたときには、神が見ていると躊躇(ちゅうちょ)したジュスティーノだったが、いまでは背徳的な性交を教えこんだ男の持ちものだった聖書を手元に置いている。


「砂粒のように数多い人間をお一人で担当されているのだ。あちらこちらに呼びつけていたら、神も過労死するのでは」





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