LA SABBIA NELLA CLESSIDRA CADE 砂時計の砂が落ちる III
「所有地内の教区教会に酢の配布をはじめました。全世帯には数週間あれば行き渡るかと」
パガーニ家の応接室。
イザイアの兄グイド・パガーニが、姿勢よく脚を組み直した。
淹れたばかりの紅茶の香りがただよう。
「教区教会ごとの配布であれば、配布に動く者も人との接触は最小限ですみます」
「接触……」
ジュスティーノは軽く眉をよせた。
「ご存知でしょうが疫病というものは、感染しても症状の出ない時期というものがあります。医学でいうところの潜伏期間というそうですが」
グイドが落ちついた口調で説明する。
「本人すらも感染したことに気づいていない時期ですが、それでもほかの者が近づけば疫病が感染る可能性がある」
滔々と解説するグイドに、ジュスティーノはついイザイアの影響を想像した。
「疫病が流行っている土地では、たとえ症状のない者であっても接触を避けたほうが無難です」
グイドが手元の資料や書類にスッと目を落とす。
男性にしては指のほそい手がきびきびと動くのを見て、ジュスティーノはイヤな胸焼けが心の臓にひろがるのを感じた。
「……消毒方法についても、会合でご説明いただいたと聞いた」
ジュスティーノはむりやりに引きつった笑みを浮かべた。
「ほう。会合の内容をご存知なら話が早いです」
グイドが淡々と返す。
横にひかえたレナートが、少々まずそうな表情をした。
会合の場にいなかったはずのオルダーニ家が、会合の内容を知っているのだ。
間者でもまぎれこませていたと誤解を招きかねない発言だったと気づく。
信頼関係にヒビを入れかねないと理解したが、それよりも嫉妬が上回ってしまっていた。
「……弟君から、いろいろとお聞きしていたようで」
ジュスティーノは強ばった笑みを浮かべた。
「以前もお話ししましたが、弟とは仲が悪いものであまりよけいな会話はしません」
グイドが落ちついて返す。
「では貴殿は、どこでそんな疫病の対処方法を」
「自身で調べました。だいぶ以前に」
グイドが軽く眉根をよせる。
「ほう」
レナートが横で感心したようにつぶやいた。
「領内で疫病が流行れば、人口も減り税収も一気に落ちこむ。対策を思案しておくのはとうぜんでしょう」
グイドがしずかに言う。
三世紀まえのペスト禍のあと、フィレンツェなどは移民を受け入れ養育院をつくって捨て子を保護するなどして人口を増やし、半世紀かけて経済を立て直した。
知識としては知っている。
家同士の関係と経済と人命とが関わる問題に、自身の恋心を持ちこむことがどれだけ愚かかも分かっている。
だが、愛しい人がそばにいない寂しさと、経験のない大きな仕事の主導とで心が日常的に疲弊していた。
イザイアがよこしてくれた伝言を支えにはしているが、そのイザイアの関心をいちばん引いているのはこの兄君なのではと思えて嫉妬を覚える。
「医学的なことまでご自分でお調べに。感じ入りま……」
「レナート! 出すぎた発言はひかえろ!」
兄君をほめようとしたレナートを、つい怒鳴りつける。
さいわいレナートは気分を害した様子ではなかった。
むしろ不可解そうな表情でこちらを見る。
グイドがとくに表情も変えず手元の資料に目線を戻した。
「弟君も貴殿とおなじことを」
「だれから教わったかがそんなに重要ですか、若君」
資料に目線を落としたままグイドが問う。
「若君」
グイドが呼びかける。
「オルダーニ家のご当主の容態は? いまどのような状態です」
「え……」
ジュスティーノは軽く目を見開いた。
とつぜんに何のための話題なのか。
「それは貴殿は……」
「弟が診察に出向いたのはもちろん知っていますが、容態までは聞いておりません」
ジュスティーノは、グイドの切れ長の黒い目を見た。
イザイアとの会話はほんとうにないのだという印象を植えつけたいのだろうか。
「もちろん当主の身体の具合などは、御家の重要な機密となる場合もあります。お答えできる範囲でけっこうです」
ジュスティーノは横に目線を動かし、レナートと目を合わせた。
よいのではというふうにレナートが目で伝えてくる。
「……きょうあすというわけではない。弟君の見立てでは、数年かけて徐々に進行するものだろうと」
「なるほど」
グイドがゆっくりと脚を組み直す。
「あなたがいますぐオルダーニ家を継ぐわけではなくて安心しました」
ジュスティーノはグッと喉をつまらせた。
ペストの流行する土地の消毒と酢の配布、そして石灰が必要かどうかの話を詰めにきたのだと思い出す。
嫉妬に気をとられ、考えることがどんどんズレていた。
恥ずかしさと、この兄君にはイザイアのことも含めて何もかも勝てていない悔しさとで動揺する。
「お言葉ですが、ご当主それは」
レナートがきつい口調で口をはさむ。
「いい。レナート」
ジュスティーノはできるかぎり平静をよそおった。
内心は嫉妬と焦燥とで動揺がおさまらなかったが、ここでとり乱しては恥の上塗りになるだけだ。
跡継ぎとして受けた教育で分かっている。
「失礼した」
ジュスティーノは落ちつき払ってそう返した。
「大事な話し合いを私情と混同したのは、たしかに咎められるべきことだ」
不安定にぐらつく感情を、ジュスティーノはきわどいところでおさえた。
話し合いの場数の違いで負けるのだとしても、負けたという様子は見せずに虚勢を張るべき立場なのだ。
「恥ついでに貴殿にお願いしたいことが」
ジュスティーノはムリに唇の両端を上げた。
この程度の失敗など何とも思ってはいないというふうをよそおう。
イザイアのいつもの態度が思い浮かんだ。
彼の態度の堂々としたさまは恐怖心がうすいがゆえであると知っているが、あれをマネたら泰然としているように見えるのか。
「弟君が無事に帰られたのちは、主治医としてもらい受けるのをゆるしていただきたい」
「もらい受けるという表現ですか」
グイドが複雑な表情をする。
「どういった意味かは好きに解釈していただいてけっこう。こちらは若輩者ゆえ、戻っていただくことに気をとられるあまり話し合いを破綻させることもあるかもしれないが、そこは今後とも忌憚なくご意見いただきたい」
「弟がオルダーニ家に戻ることについて、従者殿は?」
グイドがレナートのほうを見る。
考えの甘さを容赦なく追及する鋭い目つきに思えた。
ジュスティーノは、横にいるレナートを見た。
レナートはとくに大きく表情を変えはしなかったが、答えに窮しているように見える。
「……今後は家中の者同士のトラブルについては、いままで以上に目を配ろうと思う」
「若君」
グイドが口調を少しやわらげる。
「あれは自制心がなく行動の予測のつかない獣です。そのあたりの人間よりもずっと勘がよい非常に厄介な獣だ」
グイドが言う。
「屋敷に置けば、あなたは執務どころではなくなる可能性がある」
「以前も言った。あの人はただの孤独な人間だ。獣などではない」
ジュスティーノはグイドを睨みつけるように見た。
「私なら、あの人を解ってやれる」




