AMATO PRIGIONIERO 最愛の囚人 II
エルモが過去に商取引をしていたという下級貴族の屋敷に滞在し、昼間は船着き場へ通うという生活が一週間ほど続いた。
きたときにはもの珍しい感もあった海の景色が、そろそろかわり映えのしない単調な景色に感じはじめている。
昼間のほとんどは馬車の屋形のなかで渡し守を待ちながら、イザイアの注文した品を点検したりしながら過ごしていた。
御者は、ほかの商売の口でもあるのか来ない日もあった。そういった日は、エルモが馬車を走らせた。
馬の使われないヴェネツィアで育ったので、馬車のあやつり方は内陸に商取引に来たさいに覚えたのだと話していた。
海に面した城壁に、木製の小舟をぶつける音がする。
ジュスティーノは立ち上がり、屋形の扉を開けて門口に駆けよった。
離れた位置にある門口のまえに寝かせられたペスト患者は、きょうもすでに十数人はいるか。
そちらを横目に見ながら、べつの門口から身を乗りだした。
「渡し守!」
口に布を巻いた老人に、いつものように呼びかける。
「おっ、若様」
渡し守がおもしろがるように陽気な声を上げる。
もはやすっかり覚えられていた。
「イ……パガーニ医師はどんな様子だった。健康状態は!」
「いやあ、お元気でしたよ。おかしな冗談言ったりして」
渡し守は小舟をグッと桟橋によせ、手慣れた感じでバランスをとった。
「どんな」
「オルダーニって若様が渡し場にまいにち来てるって言ったら、“夜の相手にここにお呼びするわけにもいかんしな” と」
渡し守は片手をパタパタとふり、大声で笑いだした。
「貴族の若様をそんな、お医者さまってゲラゲラ笑っちまった」
連れ戻してあげたい。ジュスティーノは衝動的に思った。
イザイアも会いたがってくれているのだと思った。
主治医として戻ってほしいむねの手紙は、渡し守を通じて受けとってくれたと聞いた。
いまだ戻るという返事がないのは、何かやむにやまれぬ事情でもあるのか。
ジュスティーノは、弾かれたようにペスト患者の寝かされている門口のほうに身を乗りだした。
「わ、若様、ちょっと!」
駆けだすまえにエルモがガシッと腕をつかみ止める。
「冗談に決まってるでしょう」
「あんな場所で冗談を言う人間がいるか!」
もう片方の腕もつかまれ、うしろ手に拘束されたかのような格好でジュスティーノは踠いた。
「あの旦那なら言いますよ」
エルモがあきれたような口調で答えた。
遠くのほうから駆けてくる馬の蹄の音に気づく。
複数のようだが、馬で来る者に心あたりはない。
ジュスティーノはとくにそちらには目を向けず、エルモの両腕をふり払った。
さらに言葉を続けようとしたときだった。
「ジュスティーノ様!」
聞き覚えのある声が耳に届く。
背後のほうに目線を流したエルモとおなじ方向を見る。
数名ほど、馬でこちらに向かって来る者たちがいた。
先頭を走っているのは、レナートだ。
「ジュスティーノ様!」
近くまで走りよると、レナートは外套をひるがえして馬から降り、手綱を引いて駆けよった。
屋敷でのふだんの服装に、外套をはおっただけの出で立ち。
よほど急いで出立してきたのか。
「ジュスティーノ様」
レナートは、身体検査でもするかのようにジュスティーノの肩や腕を両手でパンパンとたたいた。
「何でおまえ……」
「まさかこんな事態になってまで、ついてくるなの何のとは言わないでしょうね」
レナートが、身をかがめてジュスティーノの胸部や腹部をたたく。
ケガの有無を調べているのだろうか。
「オルダーニのお屋敷の方で」
エルモがそう言い、会釈をする。
「ジュスティーノ様の従者だ」
レナートはエルモのほうをふり向くと、ぶるると鼻を鳴らした馬の手綱を軽く引いた。
「おまえがジュスティーノ様の居どころを知らせてくれた者か。ご苦労だった」
エルモがふたたび会釈をする。
「知らせたのか……」
何となく面倒くさいものを予想して、ジュスティーノはエルモを責めるように見た。
レナートが鼻先にズイッと詰めより、声を張り上げる。
「大騒ぎだったんですよ! 門番があやしい男どもにあなたが連れ去られたと証言していて!」
そんな間近で大声を上げずとも。ジュスティーノは顔をしかめた。
「そのあやしい男どもはどこです。貴族家の御曹司を連れ去るとは。この場で射殺してくれる!」
レナートが険しい表情であたりを見回す。
ジュスティーノは、何となくエルモのほうに視線を流した。
エルモが苦笑しながら頬を掻く。
「……エルモからの手紙でここを知ったのか」
「滞在先の御家の名と、昼間は港にいるむねと請求書が」
レナートが答える。
「ここまでの諸経費は、すべてわたくしめが立て替えさせていただきましたので」
エルモがうやうやしくお辞儀をする。
「ジュスティーノ様の保護と供の役目ご苦労。請求のぶんの金子は持ってきてある」
「もったいないことで」
「それで、あなたを連れ去った狼藉者は」
レナートがあらためて険しい表情になり周辺を見回す。
ジュスティーノが無言でエルモと目を合わせると、エルモは苦笑していた。
「まあ、そこはいいだろう」
「よくありませんよ」
レナートに同行してしてきた者たちが遅れて馬から降り、手綱を引いてこちらに近づく。
ジュスティーノは手をふって、あまり近づくなと合図した。
前方の門口に寝かせられたペスト患者に気づいたのか、同行の者たちが息を呑んで立ち止まる。
「父と家の者には、元気だということととうぶん帰らんむねを伝えてくれ」
「何を言っているんですか」
「ここでイザイアを待って連れ帰る」
ジュスティーノは、ゴルゴナ島の方角をながめてそう告げた。
「……な」
レナートがポカンとする。
「何かと思ったら、またあのケダモノ絡みですか!」
「おまえがパガーニ家に送った手紙のせいで、兄君にペスト患者の隔離所での看護を命じられたんだ!」
ジュスティーノも負けじと声を張った。
レナートがわずかに頬を強ばらせる。
命に関わるかもしれないようなしっぺ返しは、さすがに考えてはいなかったのだろう。
レナートは一瞬ゴルゴナ島の方角を見たが、すぐにふり切るようにこちらに向き直った。
「自業自得でしょう! まだ目が覚めないんですか!」
「愛しい人といっしょにいたいと思って何が悪い!」
ジュスティーノは声を上げた。
「もう少しまともな人にしてください!」
「あの人はまともだ! おまえがあの人を分かっていないだけだ!」
なぜだれも気づかないのか。イザイアが可哀想になる。
あの人はやさしい人ではないか。
ただ少し、ものの捉え方が違ってしまうだけだ。
分かりにくい表情や背徳的な言動の合間に、きちんと気遣ってくれる瞬間があるのだ。
「あの人がペストに感染するかもしれない場所にいるのに、私ひとりが安全な土地に戻れというのか!」
「いや若様、じつはあの旦那」
エルモが苦笑いして口をはさんだが、ジュスティーノには耳を貸す心の余裕はなかった。
「……あのぉ、若様」
「分かりました」
レナートが腕を組み、ぴしゃりとした口調で言う。
「医師殿のいまの様子を知れば、いったん帰ってくれますか」
ジュスティーノは無言で目を見開いた。
「私がお元気なのを確認して、伝言のひとつふたつ預かってくれば、とりあえず安心できますか?」
「レナート」
そうつぶやいた主人にかまわず、レナートはペスト患者の横たわる門口のほうへつかつかと歩みよった。
「渡し守!」
レナートが、さきほどついた渡し守に呼びかける。
「私も渡る。帰りも乗せてくれ」
海側から門口に顔を出した渡し守が、「え」と声を上げた。
「大丈夫だ。私はペストにいちど罹っている。克服した者は二度と罹らんそうだ」
レナートがそう言い、門口の向こうの桟橋へと向かう。
ペストを克服したというセリフに希望を見出だしたのか。
患者のつきそいの者たちが、顔を上げてレナートをじっと見送っていた。




