UCCELLI MARINI 海鳥 II
「見たところ若君は、とてもお元気なようですが」
フードマントの人物が、おもむろに馬車に近づく。
エルモと御者の肩ごしに屋形のなかを伺った。
年配の男性の声だ。イザイアの声ではない。
ちがう医師か。
ジュスティーノは肩を落とした。
「ペスト患者は屋形のなかに?」
医師がペストマスクをつけた顔を少しつきだし、屋形の奥を覗きこむ。
「いや、患者をつれてるわけではないんで」
エルモが答える。
「愛しい方を追ってきたというか」
はは、とエルモが愛想笑いをする。
意味がつかめなかったのか、医師がエルモの顔をじっと見る。
エルモが無骨な手でゴルゴナ島の方向を指さした。
「恋人の女性がペストに罹られましたか……」
「お気の毒に」と医師がため息まじりに続ける。
「追ってきたのは男性の医師だ」
ジュスティーノは不機嫌な表情で答えた。
医師はうつむいた姿勢のまましばらく動作を止めたが、ややしてからゆっくりと顔を上げた。
「……まあ、それはともかく」
「お医者さまは? これからゴルゴナ島に渡られるんで」
エルモが尋ねる。
「そのつもりでいましたが、身内の反対に遭ったので、せめて患者の出発まえの看護をしようかと」
「ご立派な心がけで」
エルモが言う。
「若君の追ってきた医師殿のほうがよほど奇特な方なのでは? 懸命に追ってくださる方がいるのに、隔離所行きを志願したとは」
「いやただの島流し……」
ヘラッと笑いながらそう返したエルモの背中を、ジュスティーノは無言で睨みつけた。
「貴殿は見かけてはいないか? 長身で、灰髪を長くのばした方なのだが」
ジュスティーノは屋形の窓ごしに尋ねた。
「見てはいませんが……」
医師がそう答えて周辺を見回す。
「渡し場付近だと、すでにマスクをつけていたのかもしれませんよ。だとするとお顔や髪の色などは」
「旦那のいちばん分かりやすい特徴が顔なのになあ……」
エルモが頬をかきながら苦笑する。
「もう渡られたというわけではないのですか」
医師が問う。
「分からん。渡るまえに捕まえようと思って来たのだが」
門口の向こう側には、晴れた空と海鳥の飛び交う姿が見える。
果たしてイザイアはここを通り門口を潜ったのか。
どうにかこちらより遅れて到着してくれないか。ジュスティーノはもと来た道のほうをそわそわとながめた。
「渡し守に聞いてみてはいかがですかね。医師殿の名を言えば、島に渡ったさいに隔離所で聞いてくれるかもしれない」
「渡し守か……」
ジュスティーノは身を乗り出し、陽光の射しこむ門口を見た。
同意するようにこちらを向いたエルモと目が合う。
「もうすぐこの患者たちを渡しに戻ってくるころだと思いますよ」
医師がそう言い、寝かされた患者たちのほうにペストマスクの顔を向ける。
「すでに渡っているのかどうかの確認はとれるのか……」
ジュスティーノはつぶやいた。
「くれぐれもそういうのは、付き人にまかせてくださいよ、若様」
いまだ屋形の出入口を背中でふさいだ体勢で、エルモが顔をしかめる。
向こうで毛布にくるまれ寝かされていた患者の一人が、おおきく身体をゆすった。
痙攣しているように見える。
医師がそちらをじっと見た。
「……診なくてよろしいのか?」
ジュスティーノは尋ねた。
医師が落ちつきはらって腕組みをする。
痙攣している患者のそばに若い女性が座り、たすけを求めるように医師を見た。
「そうですね。診に行かなければ」
そう医師は答えたが、小声でつけ加える。
「おそらく臨終まえの痙攣でしょう」
ジュスティーノは、スッと血の気が引く感じを覚えて自身の胸元をつかんだ。
ペスト禍に巻きこまれて間もないころ、別邸で下男の死ぬところを見た。
あのときの恐怖がよみがえり服を強くつかむ。
あのときイザイアが、動揺して動けなくなった自身を抱きしめてくれた。
堕とすための策略だったのかもしれないが、かまわない。
あの体温が恋しい。
なぜ兄君の言葉にあっさりと従い屋敷を去ったのか。
自身よりも兄君のほうがイザイアの関心を引いているのだと思うと、嫉妬で胸がくすぶる気がした。
「んじゃ、しばらくここで待機ですか」
エルモがニカッと笑い、屋形に乗りこんでくる。
御者を手まねきして、いっしょに屋形に入るよう促した。
「ここのなかがいちばん安全でしょうから。若様、特別にこいつもいいですよね?」
そう言い、御者を指さす。
「ああ」とジュスティーノは返事をした。
「詰めて詰めて」
エルモはそう指示して、パタパタと手をふった。
城壁に木材をぶつける音がする。
患者のつきそいの者たちが、顔を上げて門口の向こう側を見た。
「渡し守がついたかな」
そうエルモが言うよりさきに、ジュスティーノは立ち上がって屋形の扉のノブに手をかけた。
「だからもう、若様!」
エルモが叫ぶのにかまわず、屋形から飛びだす。
さすがに理性がはたらいて、患者たちの寝かされた門口ではなく離れた位置の門口から海側に身を乗りだした。
三人ほど乗せるのがやっとだろうかという小舟の上に、口に布を巻いた老人がいる。
向こう側の門口からのびた桟橋のそばに小舟をよせ、おっくうそうに手を上げ下げして患者の乗せ方を指示していた。
「渡し守か! 聞きたいことがあるのだが!」
ジュスティーノは声を張った。
渡し守が小舟に運ばれる患者をチラリと見てから、こちらを見上げる。
怪訝な顔をしたが、「何か」と尋ねた。
「医師を……!」
そう言いかけたとたん、うしろからエルモに上着をかぶせられる。
「せめて口をふさいで出てくださいよ、若様。旦那に教わったでしょ?」
ジュスティーノはかぶせられた上着を素直に口に押しあてた。
イザイアの屋敷に滞在しているあいだ、たしかに教わっていたことだ。
あの時期のことを思い出し、にわかに胸にじんわりとした甘い感覚が広がる。
「医師で渡った人はいるか!」
ジュスティーノはそう尋ねた。
「はあ。何人か渡ったはずですが」
渡し守が、布でくぐもった声で答える。
「そのなかにイザイア・パガーニという医師は!」
「いやあ、お名前までは」
渡し守が首をかしげる。
「長身で、長い灰髪の方なのだが」
「いや、お医者さまは渡られるときにはもう、あの鳥みたいな仮面つけてますからなあ」
やはりそうなのかとジュスティーノは唇を噛んだ。
「隔離所で、聞いてもらうわけにはいかないだろうか!」
「うんまあ」
渡し守は少々面倒そうに顔をしかめて、運ばれる患者のほうをながめた。
「聞けないことはないけど」
「ああ、もしいらしたら!」
エルモが、ジュスティーノの肩を押さえながら身を乗りだした。
「何か入り用のものがないか注文を聞いてくれ! エルモがうけたまわると!」
エルモがニカッと笑い自身を指さす。
何を島にいる前提で話しているのだ。
ジュスティーノは、背後のエルモを軽く睨んだ。




