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背徳 〘R15版〙  作者: 路明(ロア)
2.死と病の迷宮
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LABIRINTO DI MORTE E MALATTIA 死と病の迷宮 II

 下男が身体を大きくゆらして(せき)をする。

 ジュスティーノはイザイアに教えられた通り、口に手袋をあてた。

「おまえにも医師を呼ぶ。そのままでいろ」

「いや……あたしは医者なんて」

 下男が浅い息をする。

「気にするな。いま呼んでくる」

「朝までは平気だったんですが……」

 下男がふたたび咳こむ。

 ジュスティーノは、ゆっくりと後ずさった。

 介抱してもやらない自分が、ひどく冷酷な人間に思える。

 罪悪感を覚えながら厨房の出入口のタテ枠に手をかけようとして、動作を止めた。

 イザイアが、ペストの流行している場所ではあちらこちらを触らないほうがいいと言っていた。

 目には見えないがペストの腐臭(ふしゅう)がついているということか。


 下男の背中が大きく動いた。

 目をむき、一点を見つめて激しくもがく。


「だ……大丈夫か」

 下男が懸命に息を吸いこんでいた。

 床を爪でかく。

「しっかりしろ!」


 背中でもさすってやれば楽になるだろうか。そう思ったが近づくことができない。


 道徳として教えられた親切心を禁じなくてはならないことに苦痛を覚えた。

 ひどい罪悪感にさいなまれながら、ジュスティーノは下男が床を這うごとに後ずさった。

「……まっていろ。いま医師を」

 医師など呼んでも間に合わないだろう。そう直感していた。

 神に祈ればよいのだろうか。

 おずおずと十字を切る。


 下男のめいっぱい見開かれた茶色の瞳と目が合った。

 助けを求められているのか。


 介抱してやりたいという道徳心に、必死に逆らい続けた。下男のもがき苦しむ姿をただ見つづける。

「すまん」

 ジュスティーノはそうつぶやいた。

 



 しばらくして、下男が動かなくなる。

 先ほどよりも太陽がかたむき、厨房の一角に西日が射していた。

 ものごころついたときから教えられていた道徳に逆らいつづけたことで、自身のなかの何かが壊れた気がした。


 だれか助けてくれ。


 そう念じたが、死体だらけの屋敷でだれが助けてくれるというのか。

 神も来てはくれなかった。

 ここは地獄かと錯覚するような状況で、だれがどうすればいいかを教えてくれるのか。


「若様」


 コツ、と靴音がする。聞き覚えのある男性の声がした。

 うす暗い廊下の向こう。

 玄関ホールのほうからこちらへ、姿勢のよい歩き姿で近づく長身の男性がいた。

 襟締(クラバット)をきれいに首元でむすび、略式の正装を身につけている。

 長い灰髪を一つに束ねて、肩に垂らしていた。


 イザイア・パガーニ。


「門扉のまえで呼びかけてもだれも来ないので、勝手に入らせてもらったが」

「パガーニ医師……」

「イザイアでいい」

 イザイアはそう答えて死んだ下男をながめた。

「まあ、こんなことだろうと」

 イザイアがハンカチを自身の口にあてる。

「息のある者は?」

「先ほどまでその下男がいたが……目のまえで死んだ」

「では、ほかにもいる可能性はあるか」

 イザイアが周囲を見回す。

「息のある者は、うちであずかってもよろしいが」

「……おねがいする」

 ジュスティーノは力なく答えた。

「下男や女中なども?」

「診てやってくれ」

 ペストマスクに黒いフードマントの者たちが、イザイアのもとに小走りで駆けつける。

「息のある者をさがして運べ」

 イザイアがそう指示をする。

 ジュスティーノはうつむいた。

 使用人に対してあらゆる権利を持っている以上、情けをかける義務もあると信じてきた。

 だがたったいま見殺しにしたばかりの自身が、診てやってくれなどと言うのは後ろめたい。


「はじめに運びこまれた者から広がっていたのか」

 イザイアがそう見当をつける。

「二週間のあいだに……」

 ジュスティーノはつぶやいた。

「倒れている者にさわったか? 若様」

「……さわってはいない。貴殿に教わっていたので」

「けっこう」

 イザイアはそう返した。


 コツ、と靴音をさせてイザイアがきびすを返す。

「帰るぞ、若様。今日のところは、またわたしの屋敷におられたらいい」

 ジュスティーノは、ショックを受けた状態で立ちつくしていた。

 イザイアがいったん廊下に踏みだしてこちらを見る。ややしてから、ゆっくりとこちらに近づいた。

 複数の人間が駆ける音が聞こえる。

 息のある者がいたのだろうか。


「人が死ぬところを見たのは初めてか、若様」


 イザイアが尋ねる。

「……ひどい咳をしていた」

 ジュスティーノは答えた。

「咳をしていたのか」

 イザイアが倒れている下男をながめる。

「肺ペストに移行したのかもしれんな。――なるほど」

「苦しんでいたのに……」

 ジュスティーノはつぶやいた。自身を責めることが、せめてもの謝罪になる気がした。


「眠るように死ぬなどという人間は、じっさいはあまりおりませんからな。たいていは、目をむいてひどくもがく」


「……助けを求めていた」

 ジュスティーノはポソリと続けた。

「若様、死ぬ直前などどうせ意識はない。もがいていたのは、ただの身体の反射だ」

「はん……?」

 ジュスティーノは顔を上げて、美貌の医師の瞳を見つめた。

「震えておられるな」

 イザイアが肩にふれる。

 言われてからはじめて自身が小刻みに震えているのに気づいた。

「かわいそうに。落ちつかれよ」

 イザイアがなだめるように抱きすくめる。

 二週間のあいだ同じ屋敷内にいたにも関わらず、直接ふれるのはこれが初めてだと気づいた。


 人間臭さのない美貌と冷たい色の瞳に反して、身体はずいぶんと温かいのだと思った。





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