ANCORA NON CONOSCO IL SAPORE DELLE MELE リンゴの味はやはり分からない
昼すぎ。
厨房には、炉辺の火を見にきた女中が一人いた。
イザイアは質素なイスに座り、調理作業台に肘をついて書物を読みはじめた。
屋敷の主人でありながら、平気で厨房にいすわるイザイアを女中が複雑な表情でチラリと見る。
外から荷車を引く音が聞こえた。
ややして、木製のドアをたたく音。
女中が立ち上がろうとしたが、そのまえにイザイアはすたすたとドアに向かった。
ドアを開ける。
外が気持ちよく晴れていたことに気づいた。
ドアのまえに立った無精髭の男の顔が逆光になり、地面にくっきりとした影ができている。
「どうも」
エルモが帽子を胸にあててあいさつした。
「朝からご立派な馬車がたずねてきてたようですが」
「オルダーニ家のだ」
イザイアはそう答えた。
エルモが「ははあ」とつぶいて正門のほうを見る。
「オルダーニ家の若君、お帰りになったんですか」
「帰った」
そう答えて髪をバサバサと解す。
「おさみしくはありませんか。娼婦でも斡旋いたしますか?」
エルモが商売人の口調で尋ねる。
「そうだな」
イザイアはふたたびイスに座り、調理作業台に肘をついた。
「とうぶんは本職の者のほうがいいかな」
「やっぱり素人はめんどうですか」
エルモがもういちど正門のほうを見る。
「堕とすまでは楽しめるんだが、ながく遊ぶと愛しているだの情がどうのと言いだすので厄介だ」
「ふつうは愛してると迫られたら大喜びですがね」
エルモが苦笑する。
「味覚がまったくないのに、リンゴのおいしさを共に語り合ってくれと言われたら苦痛だろう?」
「分かりやすい例えで」
エルモがひとやすみという感じでその場にしゃがみ、ドアの縦枠に腰をあずける。
「おまえは呑みこみがいいから好きだよ」
イザイアは、わずかに首を伸ばして開け放たれたままの出入口を見た。
「今日も売りにきたのは野菜か」
「ええ」
エルモがそう返答して荷車のほうをふり返る。
「あとはとうぶん来られなくなると思います」
「どこかに行くのか」
社交辞令として尋ねる。
「うちの村にもペストが出たみたいなんで、むかしの商売仲間のところに避難しようかと」
「ほう」
読みかけの書物のページをめくりながら、イザイアは含み笑いをした。
「グイド兄上は何をやっていたのかな」
「いや村の入り口封鎖の指示したり、いろいろやってくれてましたよ、兄上様」
エルモは苦笑した。
「ただまあ、街に物売りに行かなきゃ食って行けない者もいますからねえ」
「また不眠症あそばされて阿片を受けとりにこられるかな」
イザイアは肩をゆらして笑った。
「旦那は? とうぶんここにいらっしゃるんで?」
「とくに動く予定はないな」
イザイアは答えた。
エルモが、住んでいる村の方角を見る。
「ペスト経験してる男娼を留守番に置いて行きますんで、好きに使っていいですよ」
「そうか」
イザイアは返答した。
「以前、助手として借りていた娼婦もそうだったな」
「ヴェネツィアは何十回もペスト流行ってますからね。そういうやつもときどきいますよ。旦那もそうでしょう」
イザイアは読みかけの書物を手に持ち、ペラペラとページをめくった。
ややしてからエルモのほうにその書物をさしだす。
「餞別だ」




