NON TI RAGGIUNGO あなたには届かない II
屋敷の正門まえに良家の所有と分かる馬車が止まる。
近くにいけば、屋形のドアにオルダーニ家のカトレアの紋章があるのが確認できるだろう。
御者が首を伸ばして門のなかを伺うのが遠目に見えた。
そういえば、この屋敷にはじめて駆けこんだときも門番がいないことに戸惑ったなとジュスティーノは思い出した。
朝から気持ちよく晴れている。
庭の木々の葉も敷きつめられた芝生も、きれいな緑色をつやつやとさせ微風にゆれている。
一階の玄関ホール脇の廊下。
ここ数日はイザイアの部屋にも行かず、廊下の窓から正門を日がな一日ながめていた。
イザイアは、部屋に来るなとは言わなかった。
おそらくいままで通りに行っても追いだしはしないだろう。
おだやかで人当たりがよいが、心の中にはだれもいないのがイザイアという人間なのだろう。
冷静になってから自分なりに理解した。
だれも愛さないのではなく、愛するという感情の出所がもとからそなわっていないのだと本人も言っていた。
愛を説いている神が、愛の出所のない人間をつくるのか。
そんなことがありえるのかと、ここ数日は窓の外をながめながら考えていた。
「ジュスティーノ様」
レナートが歩みよる。
ここのところは、屋敷内の居所がほぼ決まっていたので安心していたようだ。
「本邸の馬車が到着しました」
「知っている。見ていた」
ジュスティーノは答えた。
レナートはすっかり身じたくを整えたようだ。
そんなに帰りたいのかとジュスティーノは目を伏せた。
自身にしても、いまはもうここにいてもしかたがないのだが。
いまごろイザイアは何をしているのか。
診察の時間だろうか。
客室のほうをながめる。
「門番がいないんですよね、この屋敷」
レナートが窓の外をながめる。
「ほんとうに変わった屋敷だな」
「かまわん。おまえが出むかえてやれ」
ジュスティーノはそう告げた。
「お一人でご準備できますか?」
「子供でもあるまいし」
ジュスティーノは苦笑した。
レナートが、二、三歩ほど歩を進める。
「ああ……」
そうつぶやいた。
「あの女中も呼んでこなければ」
レナートは周辺を見渡した。
「いまどこです?」
ジュスティーノは従者の顔をながめた。
何のことだったか。
「医師殿にきちんと話は通してあるのでしょう?」
あのかわいらしい女中のことかと思いいたった。
「いやあれは……」
ほんとうは連れ帰れるものならそうしたいのは、彼女ではない。
イザイアは、滞在中の遊び相手としてあてがうため彼女を雇ったと話していた。
こちらが帰ったあとは、どうするのだろうか。
解雇するつもりだろうか。
「……そうだな。呼んでくる」
ジュスティーノはそう告げて食堂広間に向かった。
女中をさがして食堂広間の付近まできたとき、廊下の向こうからくるイザイアと遭遇した。
ここ数日は、顔を合わせていなかった。
食事も理由をつけて時間をずらしてもらっていた。
最後のあいさつをするかどうか迷っていたが、女中のことを話さなくてはなるまい。
話がありそうだと察したのか、イザイアは目線で私室のほうに促した。
歩調を変えず私室に向かう長身の背中。
ジュスティーノは無言でついて行った。
イザイアの私室に入る。
数日ぶりでイザイアの扇情的な香りを感じた。
部屋に入れば欲情してしまうのではないかと懸念したが、いまはこの香りで、失くしたものへの恋しさのほうをつよく感じた。
ここで何日も、イザイアの愛撫だけを求めてすごしていた。
止まらない情欲の波に狂っていたあいだの自身を思い出す。
体は疲弊していても、餌に餓えた獣のようにイザイアを欲しがった。
イザイアが、まとめていた髪を結わえ直す。
「さきほど本邸からの馬車が到着した」
「そうか」
イザイアが短く返す。
「ではお気をつけて」
いつもの淡々としたもの言いだ。
あれだけ体を重ねた相手が、もう会えなくなるとなっても彼はこうなのか。
「……ついては、先日の女中を本邸の女中としておゆずりいただきたいのだが」
「どうぞ」
イザイアがさらりと答える。
まるですぐに補充できる備品をわたすような言い方だ。
どの女中か確認もしないのかとジュスティーノは思った。
イザイアは髪を結わえ直すと、軽くなでつけた。
おもむろに読書机の引きだしを開けると、何かを書いた書面をとりだしサインをする。
書面を封筒に入れ、こちらに差しだした。
「オルダーニ家への治療費の請求書だ。今後かかる分は、追ってお知らせする」
目の前に歩みよったイザイアに、ジュスティーノはわざと目を合わせた。
何らかの情が少しでも見てとれるのを期待した。
なんども体を重ねた相手に対する、ある種のなれなれしさのようなものを表情のなかにさがす。
イザイアはまったくの他人と相対しているかのような、社交辞令的な微笑を浮かべた。
「本邸にご到着のさいは、酢かつよい酒で馬車とご自身の消毒を。ペストの蔓延する土地を抜けたところで、まずいちどやることをお勧めするが」
「イザイア」
ジュスティーノは、たまらず呼びかけた。
イザイアがドアのほうをながめる。
「消毒用の酒を持って行ったらいい。用意させる」
「イザイア」
「のこりの患者は責任もっておあずかりする。回復した者と死者が出たらそのつど手紙でお知らせする」
「イザイア」
「以前もご説明申し上げたとおり、亡くなった場合は面会はいっさいなしで最寄りの教会に埋葬させていただく」
聞こえていないのかと思うような様子で、イザイアが淡々と言葉を続ける。
「司祭の聖書の読み上げは拒否される可能性が高いが、こちらの頼んだ墓掘り人夫に読み上げさせるのでそれで了承いただきたい」
「イザイア!」
「若様もそろそろべつの人間と遊びたいでしょう」
まったく様子の変わらない口調で、イザイアがそう続ける。
「わたしもだ」
ジュスティーノはイラついた。
わざと冷たくしているのではない。
悪気もなくこの冷たい態度をとっているのだ。
それが直感的に分かった。
おなじ価値観の人間であれば、理不尽な冷たい態度を責めることもできる。
だがおそらくイザイアは、自身の態度が人を傷つけるのだとすら分かっていないのだ。
人の心が傷つくものだということすら、この男には理解の範疇外なのかもしれないと思いいたり、ジュスティーノは愕然とした。
「愛や情が、だれにも湧いて出ないなど!」
たまらずジュスティーノは声を上げた。
「そんなことがあるのか! ただ分かろうとしないだけではないのか! ただ愛せる相手に出逢ったことがないだけではないのか!」
愛する感情を生み出すこともできない人間が、なぜ人の情愛をかき立てるのだ。
理不尽さに目が潤む。
イザイアは表情もなくこちらを見ていた。
ゆるく腕を組み、おもむろに口を開く。
「一つだけ分かってくれるか若様」
おだやかな口調でイザイアが切り出す。
「まったく理解のできないものを、おまえにも湧いてくるはずだと決めつけて詰めよられるのは、あんがいと不快なのだ」
イザイアがしずかな足どりで出入口のドアに向かう。
すれ違いざま、ジュスティーノの肩にそっと手を置いた。
「楽しかったよ、若様」
するりと手が離れる感触を、ジュスティーノは無言で見送った。
「お元気で」
そう言いイザイアは退室した。




