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背徳 〘R15版〙  作者: 路明(ロア)
1.ペスト医師
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MEDICO DELLA PESTE ペスト医師 II

 イザイアの屋敷の客室に隔離(かくり)されて十日がたった。


 あと四日か。

 ジュスティーノはため息をついた。

 窓のそとは庭の一角らしいが、だれも通らない。

 十日のあいだ、ひたすら庭木の葉がゆれる様子をながめていた。

 できれば日付の分かるものがほしいと医師に要求したが、患者が日付など気にするものではないと却下された。


 一週間をすぎたところで、せめてもの妥協案(だきょうあん)なのか医師は砂時計を置いていった。


 窓ぎわに砂時計を置き、逆さにする。

 サラサラと白い砂が落ちた。

 砂時計のガラスが、窓の(さん)に透けたほそい影をつくる。

 これを一日になんどか繰り返していた。


 いまのところ体調に変化はない。

 このままなら自身は隔離を解かれて部屋から出られるかもしれないが、自身についてきた付き人たちや従者は、けっきょく全員が発症してしまったと聞かされた。


 隔離を解かれてもここにしばらく滞在するか、それとも患者は医師に(たく)していったん別邸へと戻るか。

 後者だろう。

 付き人たちと従者は心配だが、家がいまごろ自身たちの行方をどう認識しているのか気がかりだ。


 廊下から聞き慣れた靴音がした。


 ジュスティーノは、軽くため息をついてベッドに移動した。

 出入口のドアが開く。

 鳥のような仮面に黒いフードマント、黒い手袋に木製の杖。

 いつものイザイアの格好だ。

 助手が水差し(カラッファ)をテーブルに置き、ベッドの横のテーブルを片づけはじめる。


「完食か。けっこう」


 イザイアが(から)の食器をながめる。

 クチバシの部分につめている香草の香りが、ふわりと鼻孔に届いた。

「腹痛や嘔吐(おうと)嘔気(おうき)などは」 

「ない」

 ジュスティーノは答えた。もはや慣れたやりとりだ。

「頭痛や悪寒や(せき)

「どれもない」

「けっこう。服を脱いで」

 イザイアが杖を手にする。

「いまごろ何だが」

 ジュスティーノは、ズボンの留め具を外しながら切りだした。

「隔離が二週間というのは? 根拠があるのか」

 脱いだズボンをベッドのヘッドボードにかける。


「感染が腐臭(ふしゅう)からにしろべつのものからにしろ、症状が出ている者に近づくと感染するというのは、古代にはすでに経験的に知られていた」


 イザイアが杖の先をながめる。

「記録や証言を精査すると、おおむね患者との接触後二日から一週間後に発症しているようだと。まあ、根拠はそのあたりか」

「では隔離は一週間でよくないか」

 ジュスティーノは、ゆっくりとベッドにあおむけになった。

 イザイアが前触れもなく杖の先端を首筋にすべらせる。ジュスティーノはゾクリと身体を縮ませた。

「あとの一週間は念のためだ。ヴェネツィアでは四十日ほど隔離する」

「四十日……」

「わたしは四十日でもかまわんが」

 イザイアがククッと笑う。

 杖の先端がジュスティーノのシャツをまくり、腰をツッとすべる。

 ジュスティーノは、震えそうになった息をこらえた。

「いや……二週間で勘弁してほしい」

 苦笑してそう返す。

「そうか」

 イザイアが、杖で鼠径部(そけいぶ)をさぐる。

 ジュスティーノは息をこらえながら杖の動きを見つめていた。


「……よけいなことかもしれんが」


 ジュスティーノは切り出した。

「私たちがここにきたときに、広間で(はべ)っていた女性たちは」

「近くの街の娼婦たちですな」

 イザイアが答える。

「あんなに集めて?」

 ジュスティーノ自身は、すでに四日後にはここを離れる心づもりでいた。

 いまは念のための隔離なのだ。このあとの発症など、もうないだろうと思っている。

 自身がこの医師と会うことは、今後はない。

 知識もあり、人柄としても悪くはないと思われるこの医師が、あんなふうにふしだらに時間をつぶしているのはもったいないと感じていた。


「お言葉だが、昼間から感心しないな」


 ジュスティーノはそう(たしな)めた。

 ここで十日をすごすうちに、医師にたいして親近感を持つようになっていた。

 素顔を見たのは駆けこんだときのいちどきりだが、おだやかで気づかいのある人物だと判断している。

 筋を通しての苦言なら、きちんと聞いてくれる人ではないかと思う。

「あれ以降は呼んでいませんが」

 イザイアが答える。

「そうなのか」


「若様と遊んでいるほうが楽しいので」


 ジュスティーノは、かすかに違和感を覚えた。

 口調に、これまでの十日間の話しぶりとは微妙に違うものを感じる。

 この医師の人物像を、どこか間違って判断していただろうか。頭のかたすみにそんな考えが浮かんだが、すぐに消えた。

 イザイアがベッドに近づく。

 上体を大きくかがませてジュスティーノの顔を見下ろした。

 何か、おおい(かぶ)さられているような威圧感を覚える。


「すでに堕落(だらく)している者より、清純なものを(けが)すほうが(たか)ぶりませんか」


 ジュスティーノは、仮面の顔をじっと見つめた。

 仮面の目のあたりを見つめるが、出逢ったときに見たイザイアの灰色の瞳は、ガラスの反射でよく見えない。

「……それは、医学的な話なのか?」

「おもしろい」

 イザイアがそう返す。

「三世紀前のペスト禍の時代には、ペストが陰の気から発生するとも信じられていて、楽しいことのみをしようと不眠不休でパーティーをしつづけた者たちもいたというが」

 イザイアがゆっくりとした口調で話す。

「なかには男女入り乱れての淫らなパーティーもあったらしい」

 とつぜん何の話かとジュスティーノは戸惑った。

 ただの雑談なのかもしれないが。

「……その後、その者たちは」

「死んだでしょうな。ペスト以前に不眠と荒淫で衰弱する」

 イザイアが肩をすくめる。「だが」と続けた。


「快楽で死の病が避けられるのなら、いいこと尽くめだと思いませんか?」


 イザイアが言う。

「……医学に明るくないので、あまりよくは」

 ジュスティーノは困惑しながらそう返す。

「おもしろい方だ」

 イザイアが含み笑いをした。





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