ANGELO CADUTO DAL CIELO 空から堕ちる I
「女中と何かお話しされていたようだが」
客室から玄関ホールのほうへとつづく廊下の一角。
夕刻の診察を終え、イザイアがフードマントを使用人に渡す。
そろそろ暗くなりかけていた。
「具合が悪いのかと聞かれただけだ」
「ほう、悪かったのですか」
イザイアが長い灰髪を結わえ直す。
ついさきほど男性の使用人を呼びつけて情事に耽っていたなど、何とも思っていない様子だ。
あんなことは日常なのか。
廊下に漏れ出た声を聞かれていたと知っても、平然としていそうだ。
「どこも悪くはない。あの子の勘違いだ」
使用人が会釈をしてその場を去る。
「何なら、お部屋に呼ばれればよろしかったのに」
イザイアが口の端を上げる。きびすを返して歩を進めた。食堂広間に向かうのだろうか。
ジュスティーノはあとについていった。
「他人の屋敷の使用人を……そんなわけにはいかないだろう」
「若様の好きそうな娘をわざわざ雇ったのだがな」
ジュスティーノは眉根をよせた。イザイアの背中を見つめる。
「……貴殿の好みというわけでは」
「わたしは独身の若い娘などはさすがに避けますな」
イザイアが言う。
「責任をとれだの何だのと言われたら面倒だ」
イザイアが肩をすくめる。
「その点、若様は仮に孕ませてしまっても金をにぎらせるなり妾にするなり次男の私より対処しやすい」
「……あんな素直そうな子をそんなふうに」
ジュスティーノは眉をよせた。
そんな思惑で雇われたなど、あの女中は知っているのだろうか。
下心などまったくない子に見えた。
「ほんとうにそんな目的なら、いますぐ家に帰してあげてくれ」
「本人は、落ち度もないのに数日で働き口を失くすことになるわけですが」
まえを歩きながらイザイアが応える。
ジュスティーノは唇を噛んだ。
「深く考えることはないでしょう。あちらにしても、上級貴族の御家を継ぐ方の妾なら大出世だ」
「貴殿は人をすべてそんなふうに見ているのか」
「それとも、男同士の情事のほうが心惹かれましたか」
イザイアは言った。ククッと含み笑いをする。
「混ざりにいらっしゃればよろしかったのに」
ジュスティーノは目を見開いた。
まえを歩くイザイアの灰髪を凝視する。
「……何のことだ」
「あのあとはどうされた」
イザイアが問う。
「我慢されたままか」
「何のことか」
ジュスティーノは長い灰髪を睨みつけた。
男性使用人のいかがわしく懇願する声が脳裏によみがえる。
ほんとうにわざと聞かせていたのか。
ジュスティーノは無言でイザイアのうしろ姿を見つめた。
廊下の奥はすでにうす暗かったが、つきあたりの玄関ホールはまだ陽光が射している。
「若様の禁欲につとめようとする心意気は、修道士なみですな」
イザイアが肩をゆらして笑う。
「だが修道士とて、ほんとうに禁欲している者など実はそういない」
イザイアが言う。
「いろいろな者を相手にしている。若い見習いの者や修道女、村娘」
「そんなことくらい知っている。それと私に何の関係が」
「医師などやっていると、赤ん坊をとり上げるために女子修道院にこっそりと呼ばれたりするなど、ときどきあることで」
ゆっくりとした靴音が廊下に響く。
「……ああ」
イザイアは、不意にそうつぶやいてふり返った。
「髪に何かついたようだ。とってくださるか、若様」
「髪?」
ジュスティーノはイザイアの長い髪を見た。
ついているものなど見あたらないが、髪をかき分ければ分かるだろうか。
手を伸ばす。
途端。
イザイアがジュスティーノの手首をつかみ、強い力で引きよせる。
「なっ」
まえにつんのめりながらも、ジュスティーノはイザイアの肩をつかんで自身の身体を支えた。
「おかげんが悪かったのか、若様」
ジュスティーノを抱き止めた格好で、イザイアは口の端を上げた。
「どれ診察してさし上げよう」
「いまのは何だ! 引っかけか!」
ジュスティーノは声を上げた。
「患部はどこだ」
イザイアが身体をまさぐる。
「そんなものは……!」
「ここか」
イザイアがズボンに手をふれた。
ジュスティーノの息が跳ねる。
「ここはご自身でも処理できるのだが。ご存知ないか」
ジュスティーノは息を震わせた。
「やめろ……」
しかし抵抗する気持ちすら、情欲に駆逐される。
当然ながら相手は男の体をよく知っていた。
人に見られる場所だから何だ。
情欲に呑まれた頭がそんなふうに変貌していく。
なぜ我慢しなければならないのだ。
体の熱で目が潤み、視界がゆがんだ。周辺の景色が現実ではないように感じられる。
堕ちる。
そんな言葉が頭のかたすみに浮かんだ。
イザイアが、ジュスティーノのズボンの留め具を外す。
いつ人が通るかも分からない。
だが、それでもいいではないかと思考が変貌する。
冷静な表情で見つめるイザイアの目のまえで、息を乱し体を前屈みにした。
イザイアの手を求めて服をつかむ。
「若様、この辺で」
不意にイザイアが制止した。
「屋敷の者も通るところですから」
ジュスティーノは医師の冷たい笑顔を見上げた。
ひどくいかがわしい自分を見せてしまったと罪悪感にかられる。
「場所を変えましょう。若様のお部屋とわたしの私室と、どちらがいい」
イザイアが尋ねる。
あの異国風の小部屋。赤橙色の灯りのなかでのイザイアの体温が頭によみがえる。
「……貴殿の私室で」
ジュスティーノは、判断力を失くした頭でそう答えた。




