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背徳 〘R15版〙  作者: 路明(ロア)
1.ペスト医師
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MEDICO DELLA PESTE ペスト医師 I

 隔離(かくり)室としてあがわれた部屋は、屋敷内の客室だった。

 暖炉(だんろ)とベッド、テーブルとカウチのしつらえられた主室と、付属の二つほどの小部屋。

 廊下や広間と同じように装飾が豪奢(ごうしゃ)なのは、屋敷の主である医師イザイア・パガーニの好みなのだろうか。

 広間でのいかがわしいパーティーを見た日以来、ジュスティーノは従者にすら会えていなかった。


 窓のカーテンを少し開けて外をながめる。

 ペストの疑いなのだ。

 窓がふさがれていないだけましかと思った。


 窓の外は庭らしいが、庭木がしげっていてさほど見通しはよくない。

 折り重なるようにして風にゆれる葉が、見飽きることなく感じたのがさいわいか。

 気がかりなのは、家への連絡だ。

 だれかを知らせに行かせたかったが、同行していた者はすべて隔離を言い渡された。

 視察の最中だったのだ。

 本邸から遠く離れた土地での出来事なので、足どりが途絶えたことすらまだ家のほうでは気づいていないかもしれない。 

 何とか現状を知らせるだけでもできないかと思うが。


 出入口のドアの向こうから、コツコツと落ちついた靴音がした。


 診察の時間か。

 ジュスティーノは出入口のドアに視線を向けた。

 

 靴音が止まると、カチャリとドアが開く。

 大きなクチバシのついた鳥のような仮面、全身をおおう黒いフードマントに手袋をつけ、手には杖というのがいつもの医師のいでたちだった。

 診察時のペスト感染を防ぐための格好だ。

 同じ格好をした小柄な助手が、部屋の入口にあるテーブルに水差し(カラッファ)を置く。


「お加減は」


 医師がそう尋ねる。

 くぐもってはいるが、あの広間で聞いたイザイア・パガーニの声に間違いないようだ。

「とくに変わりはない」

「患者なのですから、寝ていてよろしいが」

 イザイアが言う。

 仮面の下で、クスッと笑ったような息遣いが聞こえた気がした。

「いや……落ちつかなくて」

 イザイアがベッドの横のサイドテーブルを見た。

 食事を終えて時間のたった食器が置いてある。


「食事もできているようですな」


 イザイアが助手に目配せをした。助手がうなずき、食器を片づけはじめる。

「ベッドに」

 イザイアが指示する。

 一日三回ほどの診察だ。

 ジュスティーノは素直に移動すると、ベッドのはしに腰かけた。


「腹痛や嘔吐(おうと)は」

「ない」

「頭痛、その他の異状は」

「とくにない」


 ジュスティーノは顔を上げた。

「症状の出ていない者を使いに出すわけにはいかないか」

「隔離と言ったでしょう」

 イザイアが淡々と返す。

「あとどれくらい」

「最低でも二週間はいてもらうことになる。あと十日ですな」

「十日か……」

「その十日のあいだに発症すれば、完治か死すまで」

 イザイアが言う。

 ジュスティーノはため息をついた。


「ほかの者たちの様子は」

「運ばれた者の容態はまあまあですが、その後に発症した者が三名ほど」


 イザイアが、とくに感情をまじえずに言う。

「いちがいには言えんが、伝染病というのは後から感染した者のほうが症状の進みが急激な場合も」

 隔離を言い渡された折り、付き人のなかには医師に反論し隔離を拒否した者もいた。


「……落ちついて医師の指示にしたがうようにと、あらためて全員に伝えてくれないか」

「患者になられたときくらい良家の跡継ぎとしての役割を忘れてもよいのでは」


 イザイアがそう言い、黒い手袋をはめた手で枕元を指す。

 診察をするので横になれという意味だ。

「シャツはそのままでけっこう。下だけ脱いでください」

 ジュスティーノはズボンだけを脱ぐと、ベッドにあおむけになった。


 イザイアが杖の先端で耳の下のあたりをさぐる。

 つぎに顔をかたむけるよう指示し、両側の首筋を見た。


 広間で付き人に直接ふれずロウソクを使って診ていたのは、こういうことかと納得した。

 医師自身への感染を警戒してのことだ。

 杖の先端が、ジュスティーノの短髪をかき分け首筋をすべる。

 冷たい杖の先の感触に、ジュスティーノはゾクッと反応した。

 こそばゆいというか。

 横目でイザイアの様子を見る。

 ペストマスクでかくれた顔の表情はとうぜん分からないが、イザイアは何の反応もなくこちらを見下ろしている。

 杖の先が移動し、シャツの胸元をさぐった。

 脇腹(わきばら)のあたりをツッ、となぞられて身体がゆれる。


「動くな」


 イザイアが言う。

 シャツの(すそ)を杖でまくる。杖の先端が腰をすべり、ジュスティーノは軽く息をゆらした。

「……その仮面は革製か?」

 身体をゆらしてしまうのを誤魔化すために、ジュスティーノは質問した。

「よい香りがする」

「クチバシの部分に、香草をつめている」

 イザイアが答える。

「私に発症の兆候(ちょうこう)はあるか?」

「いまのところはないが」

 杖の先端が、脚の付け根をすべった。

 大きく息が跳ねる。

「……感染する者としない者との違いは何だ」

 できる限り平気なふりをして質問する。


「信仰心」


 イザイアが答える。

 ジュスティーノは表情を引きしめた。

 自身への何らかの神の(いまし)めか。

「な、わけがないでしょう」

 イザイアが肩をゆらして含み笑いをする。

「もう少しじっとしていてくれますか、若様」

 そう続けた。




 ひととおり診察を終えると、イザイアは診察用の杖をサイドテーブルに置いた。

 手を裏表に返してしばらく見ていたが、しかたないというふうに片方の手袋を外す。

「こればかりはどうしても」

 ジュスティーノの額に手をあてると、熱を確認する。

「貴殿は私のクラバットにもふれていたが、大丈夫か?」

 ジュスティーノは尋ねた。

「私がもし感染していたら貴殿も危険なのでは」

 イザイアはとくに答えず、助手の持ってきたカラッファをとり自身の手に酒をかけた。

「どうぞ」

 ジュスティーノにカラッファを差しだす。

「酒など飲んでいる気分では」

「消毒をしろという意味です」

 ジュスティーノは起き上がると、両手を差しだした。

 イザイアが手を素通りして、カラッファをジュスティーノの唇に押しつける。

 カラッファをゆっくりとかたむけて、ジュスティーノに酒を飲ませた。

 かなり強い酒だ。

 ジュスティーノは顔をしかめた。


「飲みこむな。身体があたたまれば感染する」


 イザイアが言う。

「手に吹きつけて」

 言われた通りジュスティーノは酒を手に吹きつけた。

「わたしが部屋から部屋へとペストを運んでいる可能性もありますからな」

 イザイアがカラッファをサイドテーブルに置く。


「ペストというのは、腐臭(ふしゅう)から発生すると聞いたが」

「そうと言われてますな」


 イザイアがもとどおり手袋をつける。

「違うのか?」

「少なくとも医学書ではそうなっている」

 イザイアが答える。

「少なくともとは?」

「下手に体系が確立されているので理論を崩しにくいが、根本から間違っていればすべて崩れる」

 すぐには呑みこめず、ジュスティーノは医師を見つめた。

 「つまり」とイザイアが続ける。


「ペストが腐臭から発生するという説をもとにした理論は突っこみどころもなく組み立てられているが、腐臭が関係ないとすると一気にすべて否定される」


 イザイアが、テーブルに置いた杖を手にとる。

「腐臭がもとではないと?」

「厨房の食材が腐るなど日常的によくあることだろうに、ペストが毎回流行(はや)るわけではない」

 イザイアが少し身をかがめて、ジュスティーノに仮面の顔を近づける。

「それはなぜだ?」

「私に聞かれても」

 ジュスティーノは眉をよせた。

「それもそうですな」

 イザイアはサイドテーブルに置いていた診察用の杖を手にした。


「とりあえず若様は、頭など使わずに療養(りょうよう)していればよい。無事に潜伏期間を生きのびたら、付き人や従者どののものを合わせて診療費の請求書をお渡しする」


「それはもちろん」

 ジュスティーノは答えた。

「私に何かあっても、きちんとオルダーニ家に請求してくれ」

 ジュスティーノは自身の持ってきたわずかな持ちものを目でさぐった。

 かけつけたその足で隔離されたので、ほかの持ちものは所有地内の別邸に置いたままだ。

「紋章のついた持ちものと、一筆書いたものをお渡しする」

「死を覚悟しているのか。健気(けなげ)な若様だ」

 イザイアが含み笑いをする。

「こんな事態ならとうぜんだろう」

 ジュスティーノは答えた。





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