CADERE IN MANO あなたの手に落ちる II
あらわになった胸の上で、イザイアの着た夜着が衣ずれの音を立てる。
いまだジュスティーノは、ただの悪ふざけなのだろうと思っていた。
その証拠に、イザイアは夜着を着たままではないか。
「もういい。やめてくれ」
ジュスティーノはかすれた声で告げた。
「貴殿には心配をかけた。もう眠れるから大丈夫」
イザイアが口の端を上げる。
ジュスティーノの上にのしかかった。
「ひどい方だな。ここで止められては、わたしが眠れない」
ジュスティーノは眉をよせた。
「こんな真夜中に誘うようなしぐさをしたのは、若様のほうでしょう?」
「なん……!」
ジュスティーノは否定の声を上げた。
子供ではないのだ。そういう意味のなぐさめもあるのは知っている。
だがそれは、情交を承知の間柄の話ではないか。
「貴殿が少年をたしなむのは知っていたが」
「青年は対象外だと言いましたか?」
イザイアが平然と言う。
「……不道徳がすぎないか」
ではなぜ押しのけて逃げようとしないのか。ジュスティーノは自身を非難した。
イザイアの体温と香りの生々しさで、連日の正体のない不安が霞んでいく。
壊れかけた心を救ってくれるのは、のしかかっているこの男なのだとすでに頭が納得している。
視界の端に、イザイアが持ってきた角灯のゆれるあかりが映る。
ガラスの火屋で乱反射したあかりに照らされ、異国ふうの部屋は現実ではない別世界に見えた。
「女も少年も青年も、それぞれに淫靡でいやらしい」
イザイアがささやく。
「ふしだらな行為にどう体を反応させるのか、どう身悶えるのか、どう嗚咽するのか」
イザイアが耳元に唇をよせる。
「それぞれに見たくなる気持ちはお分かりにならないか」
「そこまで理解は……!」
ジュスティーノは声を上げた。
「若様は、わたしとは住んでいる世界が違う」
イザイアがクスクスと笑う。
「違うからこそ淫らな位置に引きずり落として知りたくなる」
男同士でどういった情交をするのか知識としては知っていたが、自身がそれをすることになるとは考えたこともなかった。
やめろと言いたかったが、このまま委ねたいと崩れ落ちる心の一部と葛藤する。
ここ数週間、この屋敷にほぼ閉じこめられて彼だけを頼りにしていた。
このきつい不安のなか、唯一助けてくれる存在なのだという信頼が染みついていた。
「安心していい。はじめてではないのだから」
イザイアが耳たぶに口づける。
何を言っているのか。
ジュスティーノは、よせられたイザイアの顔を横目で見た。
「はじめての者とするのは、痛みで暴れられたりして厄介ですからな」
イザイアがクスクスと笑い声を漏らす。
「どういう意味……」
「寝ている相手よりは、やはり意識のある者のほうがいい」
ジュスティーノは眉をよせた。
いちどだけイザイアのまえで不可解な気の失い方をしたことがある。
「あれは」
イザイアが絨毯に手をつき顔を近づける。
ジュスティーノは、稀な美貌を見つめた。
「なかなかよかった」
イザイアが自身の唇をチロリと舐める。
ジュスティーノは全身で踠いた。
「卑怯ではないか! そんな手を使うなど……!」
いったい、この医師はほんとうはどんな人間なのか。
教養のある人あたりのよい人物だと判断していたのは間違っていたのか。
「いますぐやめろ!」
ジュスティーノは声を上げた。
「では、逃げたらどうだ」
イザイアが唇の端を上げる。
「女や少年ではないでしょう。逃げたいのなら力ずくで逃げられては?」
何をしているのだと思う。
こんなことを受け入れるなどありえないと思いながら、組み伏せられたままでいる。
逃げれば、また強烈な不安をともなう現実が待っているのだ。
身近な者の生をつなぎ止めることもできず、ただ命の灯火が消えるのをじっと見ているだけの地獄が続く。
心が疲弊して、もう耐えられなかった。
この医師は、いっときでも逃れさせてくれるのか。
イザイアの言う通り、自分はこのきつい状況のなか懸命に義務を果たしている。
切れ目なく続く非日常のなか、必死に正気を保ち正しいと教えられた行動を守ろうとした。
完全に壊れるまえに、なぐさめられるくらいいいだろうか。
ひとときでもつらいものから目をそらしたいという欲求が、自身のなかの常識を駆逐した。
ランタンで照らされた異国風の小部屋。
現実感のない部屋の雰囲気が、よけいにこれは夢の中なのではと錯覚させる。
「若様、わたしは」
イザイアがささやく。
「もとから人の死など平気なのですよ」
戯れでも言っているか。ジュスティーノは、イザイアの体温を感じながら聞いていた。
「慣れたのではなく、もとから何も感じない」
イザイアが、ジュスティーノの髪をなでる。
「わたしには、なぜほかの人間が人の死に心を痛めるのかが分からない」
言っていることとは裏腹な、口説いているような甘い口調だ。
「物心がついた折りから、身近な者を惜しむ感情が体のどこにあるのかいっこうに分からない」
イザイアは、ジュスティーノの耳元に口づけた。含み笑いをする。
「若様の体で教えてくれるか」
イザイアが腕を動かす衣ずれの音がする。
「若様の愛情や道徳心や死をなげく感情は、どこにある」
イザイアが淡々と続ける。
「この体の、どこにある」




