ASSISTENTE DEL MEDICO 医師の助手 I
「水は診察時にむりやり飲ませているが、弱った者の口から飲ませるのは限界がある。必要な量はなかなか飲ませられない」
「そんなにひどい状態なのか?」
ジュスティーノはペストマスクのしたで眉をひそめた。
「病人を見慣れた人間は何とも思わないが、見慣れていない人間は軽症の者を見てもショックを受けるものなので」
イザイアが言う。
軽い気持ちで助手を引き受けたのをジュスティーノは少々後悔した。
付き合いなれた付き人たちの死に近づいた様子を見ることになるのか。
考えつかなかった。
「……全身が真っ黒なのか?」
できうる限りの想像力をはたらかせて尋ねる。
「黒くなるのは敗血症ペストの場合です。じっさいはペストのなかでもそんなに症例はない」
イザイアがそう解説する。
「身体のいたるところが、炎症で内出血を起こす。それで肌が黒くなったように見える」
「……屋敷で亡くなっていた従者の身体が、真っ黒だったのだが」
ジュスティーノはそう問うた。
イザイアがゆっくりとこちらを向く。
「あ……いや。一瞬しか見ていないので、よくは分からんが」
「それは」
イザイアが答えた。
「敗血症に移行していた可能性もなくはないが、おそらく腐乱が進んでいただけでしょう」
従者の部屋のドアを開けたときに、一気に匂った死臭をジュスティーノは思い出した。
ドアを閉める寸前にベッドの上にちらりとだけ見えた、真っ黒な顔。
イザイアが、客室のドアを開けて入室する。
ジュスティーノは早足で追った。
自身があてがわれた客室と大きくは変わらない部屋のようだ。
貴賓が連れてくる上級使用人用の部屋ということか。
ジュスティーノは入口の横にあるテーブルに水差しを置き、少し首をのばしてベッドに横たわる顔を見た。
従者をつとめている者だ。
ととのった童顔が、表情もなくげっそりとしている。
肌の色も悪く、艶もない。まるで別人のように見える。
イザイアは、ベッドのすぐ横で従者の顔をのぞきこんでいた。
「熱はあるのか?」
ジュスティーノは尋ねた。
「まだあるだろうな。この様子では」
イザイアがそう答えてベッドから離れる。
サイドテーブルに置いてある水差しをとると、従者の口にあてて少しずつ飲ませた。
抱きおこしたほうが飲ませやすそうだが、医師の感染を避けるためなのだろうか。
「意識は」
「ない」
イザイアが答える。
幼なじみでもある従者だ。幼少のころから親しくしていた。
このまま死に落ちていくのかもしれないと思うと、恐怖ともどかしさで目眩がしそうだ。
「話しかけてはだめか」
ジュスティーノはそう問うた。
イザイアの返事を待たず、ベッドに近づく。
「……私だ」
間近で見ると、ふだんの様子とまるで違うことが分かる。
健康だったときには見たこともなかった、とりつくろう体力すらない表情。
険しくなった目元、カラカラに乾いた唇。
これは、死体になりつつある顔か。
よく見知っている者が目の前で命の火を消そうとしているのだと考えると、恐怖で血の気が引いた。
命をとりとめる方法はないのか。
自分が思いついていないだけなのか。
こうしているあいだにも手から砂が零れるように命が落ちていくのか。
足元の床がぬけて行くような恐怖と焦りを覚えた。
「……すまん」
ジュスティーノはその場にしゃがみこんだ。
情けないと思ったが、目眩がして立っていられない。
「はじめて瀕死の病人を見た者はそんなものです」
イザイアが言う。
「廊下で休みますか?」
「……何をしてやればいいんだ」
ジュスティーノはつぶやいた。
何も思いついてやれない自分が、ひどく不誠実な気がする。
心から心配していれば、何かを思いついてやれるものではないのか。
記憶をめぐらして、何とか知識を掘りおこす。
「聞いたことがあるのだが」
ジュスティーノは顔を上げた。
「悪い血を抜けばよいのでは。腫れた箇所に刃物を入れて」
「瀉血ですか」
イザイアが答える。
「瀉血はよくいわれる治療法ではありますが、わたしが知るかぎりあれで助かった者はいない」
イザイアが淡々と言う。
「蛭に血を吸わせても助かったという話は聞かない。刃物で抜く血が多すぎれば、その場で死ぬ」
「いやでも試しに」
「試しで死なせるわけにはいきませんな」
イザイアが言う。
ジュスティーノは水を飲ませるイザイアの手元を見た。
この医師は、自分などよりもずっと従者のことを考えてくれているのだ。
医師として素人の思いつきなどをいちいち採用しているわけにはいかないだろう。
「……悪かった。貴殿の判断に従う」
ジュスティーノはそう答えた。
どう心を落ちつけていいのか分からない。
イザイアが淡々と対処しているのが、頼もしく思える。
「助手にならんな……すまん」
「わたしこそ配慮が足りなかった」
イザイアがおだやかな口調で答える。
この場に慣れているイザイアが、しかたがないと言ってくれているのだ。
弱さや動揺をさらけ出してもいいのだと思った。
これが使用人や所有地の住人のまえであったら、平気なふりをして立っているところだ。
だがこの医師のまえなら、いいのだと思った。




