IL GIOMO PRIMA DELLA PARTENZA 別れの前日 I
イザイアの部屋のドアをノックする。
ドアの向こうからガサガサと聞こえていた音が止んだ。しばらく静かになる。
「……私だが」
ジュスティーノがそう言うと、ややしてからゆっくりと靴音が聞こえた。
ドアが開く。
イザイアの精悍な美貌がドアの隙間からのぞいた。
「忙しいのならあとにするが……」
かすかにイヤな予感がしつつも、ジュスティーノは苦笑した。
「いや」
イザイアが創かえしなか部屋の中にうながす。
ハーブの香りがする。
清涼感のある覚えのある香りだ。
イザイアがペストマスクにつめていたものではなかったか。
ジュスティーノは、いやな予感の正体に気づいた。
「香りがお気にさわったか」
イザイアがベッドのほうに向かいながら尋ねる。
「いや……」
「若様が以前つけたペストマスクにもつめていたものだ。お嫌いではないだろうと思っていたが」
「ああ……」
ジュスティーノは返答した。
「覚えている……」
イザイアがこちらを見て微笑した。
ベッドの上に、束ねたハーブや薬草と思われる草がならべられている。
「エルモがさっそく届けてきた。あちらについてから届けてくれたほうが、運ぶ手間がはぶけて楽だったが」
イザイアがクスクスと笑う。
「まあ、あした島についてすぐに使えるのは助かる」
「あした……」
ジュスティーノは思わず眉をよせた。
不安と離れたくないという気持ちと、引きとめるのは難儀であろうという予測とで、軽い目眩をおぼえる。
「……休暇はもう少しあったのでは」
「従者殿も早めにもどると話題にしていたので、若様は把握していると思っていたのだが?」
ジュスティーノはわずかに目を伏せた。
イザイアがべつの話の合間にそう言っていたのは承知している。
それでもギリギリまでいてくれるものとなぜか思いこもうとしていた。
「だがペストが」
ジュスティーノはついそう口走った。
かがんでハーブの束をとろうとしていたイザイアが、こちらを向いて笑む。
「若様、ペスト患者の隔離施設なのだ。ペストがあるのはとうぜんだが?」
「貴殿が……!」
ジュスティーノは声を上げた。
「こんどこそ罹患したらどうするのだ! 私を置いて行くのか!」
イザイアが、もういちどこちらを見る。
何を思ったかベッドの枕元のあたりに視線をうつし、クッと笑った。
「ほんとうに若様はかわいらしい」
さらにククッと笑うと、ふたたびかがんでハーブを手にする。
何を笑っているのか。
恐怖心がないからなのだろうか。
ならなおのこと、彼が危険に足を踏みだしそうになったら守るのだと心に決めたではないか。
イザイアにいやな顔をされても、愛だ恋慕だという人間とはやはり楽しく遊べんと二度と見向きもされなくなっても。
目を眇める。
もとより彼が自分に飽きるまでの関係だと覚悟していた。
ある日とつぜん自分に興味が失せて、無表情でさよならと告げられる日は来るのだろう。
それまでのあいだ、しあわせであったらいいのだと。
もう充分、しあわせな時間をすごしたではないか。
「……島にもどらないでくれ」
ジュスティーノはそう言った。
たとえ鬱陶しいと別れを告げられたとしても、隔離施設の医師を辞退してくれさえすれば、彼は生きていてくれる。
遠く離れても、いまごろは何をしているのかと想像を楽しんですごすことならできる。
死なれるよりずっといいではないか。
ジュスティーノは自身にそう言い聞かせた。
涙がにじむ。
愛する人に死なれたらと心配する気持ちは、彼には理解してもらえないのだろう。
ただの感情的な予測で行動を制限されたと不快に感じるだけなのだろう。
以前、別れを告げられたときのことを思い出した。
あのとき肩に置かれた手が、あたたかかかったことを覚えている。
別れを告げる相手にすら「お元気で」と言葉をかける人なのだ。やはり根底にあるものはやさしいのだろうと思う。
いまにして思えば、あのときにお別れだと言ったのは、彼なりの気遣いだったのではないのか。
どう足掻いても恋愛感情を返すことのできない自分のことは忘れて、あらためて愛し合える人をさがしたらいいと。
そう言いたかったのでは。
自分だけは分かってあげたいのだ。離れても一生理解して行くつもりだ。
「……隔離施設にもどるのはゆるさない。何ならオルダーニとして、御家に圧力をかけてもいい」
イザイアが真顔でこちらを見る。
窓から射したうすい陽光が、整った顔を造りもののように見せていた。
あと少しの時間で、陽がしずむだろう。
愛する人との別れをみずから早めてしまったさみしさと葛藤を、今夜は暗い一人の部屋で噛みしめることになるのか。
ジュスティーノは、絨毯に目線を落とした。
何かがぽとっと落ちたのが目に入る。
涙だろうか。
「このまま隔離施設の医師を辞退してほしい。拒否するのなら、私がムリやりにでも島についていく」
イザイアがかすかに目を見開く。
自身の身を盾に脅迫など、むちゃくちゃなのは分かっている。
もはやついて行きたい気持ちと、彼を危険から回避させたい気持ちとがないまぜになって、自分でも何を言っているのか分からない。
言っていることの一貫性を保とうとしたが、しゃくり上げるように喉がつまり、ますます混乱した。
「私は本気だ。貴殿に死なれて残されるくらいなら、ついて行く。よけいな患者を増やしたくなければ辞退してくれ」
イザイアはゆるく腕を組んでこちらを見ていた。
不快そうな表情は浮かべていなかったが、さきほどまで笑んでいた口元は結ばれたままだ。
泣くつもりなどないのだが、涙がぽろぽろと絨毯に落ちる。
止めようとすればするほど止まらない。
イザイアは、きっと呆れているのだろう。
以前よりももっと最悪な別れ方ではないかと思った。
いつか別れが来るだろうと覚悟はしていたものの、せめて最後は心地よい別れ方をしたかった。
「脅迫までされて迷惑したと、人には言ってくれてかまわない。私と二度と会わなくていいから」
みっともないと思うのだが、自身の靴や絨毯につぎつぎと涙液が落ちる。
ここで過ごしているあいだは、しあわせだった。
あとは思い出だけを心の中でなんどもくりかえしてすごせばいい。
ぽたぽたと涙が落ちる。
別れるのはつらいが、彼に死なれるよりはいい。
間違ってはいないのだと自身に懸命に言い聞かせた。
「イザイア」
ジュスティーノは掠れた声で呼びかけた。
これが最後になるのだ。
言いたくても我慢していた言葉を言うくらいはいいだろう。
「愛している」
イザイアは真顔のままだった。
ゆるく腕を組み、首を軽くかたむけてこちらを見ている。
ジュスティーノは彼の胸元を見つめた。
出逢ったばかりのころに、別邸で動揺した自分を抱きしめてくれた。
案外と逞しくあたたかい胸なのを知っている。
ベッドでなんども首に腕を回して抱きしめた。
あの唇に、数えきれないほど口づけた。
もう、触れさせてはくれないだろう。
懸命に目に焼きつけておこうと思ったが、涙でぼやけて視界がかすむ。
またぽたぽたと涙が落ちる。
イザイアがスッと下を見た気がした。
落ちた涙が気になったのだろうか。
「……すまん」
ジュスティーノは目に指先をあてて、涙を止めようとした。
だが、さらに大粒の涙がぽろぽろと落ちる。
「すまん。貴殿の部屋なのに」
「宿泊部屋なので気にはしないが」
イザイアがそう答える。
「あしたには出る部屋だ」
ジュスティーノの目から、さらにぽろぽろと涙がこぼれた。
「……ここを出たら、自宅屋敷へもどってくれ。兄君やほかの御家には、私が圧力をかけて帰したのだと話す」
「一途な方だな、若様」
イザイアが肩をすくめる。
「貴殿のいちばん嫌いなたぐいの人間なのは分かっている」
涙を指先で拭いながら、ジュスティーノは苦笑した。




