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星の眼

作者: 無川 凡二

 その一人乗りの宇宙船は憎悪を感じるほどに、綺麗に整備されていた。何かの事故で刑に服すことが妨げられない様、万全の準備をされている。罪人はこの船で開拓中の惑星に送られ、船の設備でテラフォーミングを行う。そして、罪に応じた期間で十分な成果を出せば、地球への帰還を許される。

 今まで多くの罪人が空の彼方に流された。帰って来たものは、一握りにも満たない。


 私は罪人だ。この船は、私の棺桶という事になる。

 どんな罪を犯したのか、私は覚えていない。罪人は記憶を消されるのだ。ただ、取り返しのつかない事をしたという実感だけが、背筋を這い回る。現在の私にはたったそれだけ。そして、それだけで十分だった。どんな罪かを確認すること自体が、罪に対する冒涜であるからだ。そこに疑う余地はなく、ただ与えられた刑を一心に全うする事だけが、私にできる事だった。

 だからこの船に乗る事に不服はない。しかし、故郷であるこの青い星を離れる事には、少しばかりの寂しさを覚えるばかりだ。

「受刑者を前へ」

 私はその言葉を聞いて、未練を振り払い前へ出た。

「期限は十年だ。この宇宙船は十年後に、地球に帰還できる様になる。だが、お前が結果を出さなければ船は動かない。質問はあるか?」

 私の二倍は歳をとっていそうな男が、高圧的に説明をする。

「いえ」と私が答えると、それ以上話すのが面倒だったのか、満足そうに頷いた。

 私は船の入り口に足をかける。踏み込めば、もう片足も地面から離れる。この瞬間が地球の土を踏む最期の瞬間であるかもしれないと思うと、なかなか力が入らない。

「何をしているんだ! 愚図が!」男は私を蹴り、私はボールのように宇宙船の床に転がった。

 硬い、金属の大地。そしてそれは心よりも狭く、冷たかった。

 背後で叩きつける様に扉が閉められると、船内の空気がその拒絶に震えた。私は、罪人だった。

 出発の警告が船内に流れ、私は慌てて壁のベルトに体を固定する。磔にされることに安心を覚えることなど、もはやどうでも良くなっていた。船は大きく震え、垂直の負荷が私を襲う。それが収まると、地球の匂いが、失われた気がした。大気圏を離れたのだ。

 私は固定を外して、この独房の窓から地球を望んだ。青く、明るく、そして小さくなってゆく。思い出はひとつもない、それでも、齧り付く様に硝子に張り付いた。

「十年だ」今にも胸の中から消えそうになっている地球に誓うと、氷が溶けてなくなる様にそれは見えなくなった。いくらかの渇きはそれで癒えた。目的に生かされる命もある。それだけで、虚空の中に、未来が見える。

 星と星との間を埋める、全てを繋ぐ無の中で。私は十年後の明日のことを考えた。


<>


 人が動物として生活をするにはいくつかの条件がある。人間としての生活なんて贅沢はこの際考えないことにするとして、空気と水と食糧、そして多少の安全がなくてはならない。

 船内設備の偏りから予想できていたが、この星にはどうやら地球とほぼ変わらない空気があるようだった。

 硝子越しに広がる地平線は痩せこけた大地の輪郭をくっきりと見せる。何か目に留まるものはないかと視線を走らすが、青と薄茶色の二色だけが、目に焼き付いて残像を残す。重力はいくらか軽いようだが、それは問題ではなかった。

 私がこの星でやることはひとつ、ある植物をこの星の全土に行き渡らせることだ。それは大気を調整し、果実に水を凝縮し、そして食糧にもなる、非常に繁殖力の高い植物だった。十年で地表の五割程度の密度まで繁茂させれば、私は地球に帰ることができる。

 この星には海がなく、地表の五割とはつまり半球の面積ということになるが計算上は問題なく遂行できそうだった。

 外気に毒性がないことはわかっている。私はそのまま船を降りると、大地に背中から寝転んだ。最も近い恒星に照らされて、空が青く深く広がっている。私は、いっそ地球と違う大気でも良いから空の色が違えばと思った。閉じ込められていた気がしなくなっただけで、ここは独房には変わりないのだ。

 見渡す限り危険はない。一息つくと、私は罪人らしく自分の作業に戻った。宇宙船から取ってきた試験管に土を採取し、分析をかける。そのデータに合わせて、種子の遺伝子を調整する。あとはそれを発芽させ、それが育たない土地に出会ったらまた土を回収して種子を調整するのが、基本的な流れになる。

 発芽させるために必要な水は、船が大気から作ってくれる。安定して消費できる量が溜まるまでに時間を要するから、これから地球時間で数日ほどは暇になる。

 それを自覚すると真空に周りのものが流れ込む様に、沸々と思いが湧いて出てきた。

 どんな過酷な環境かと身構えていたものの、これならなんとか十年を生きることは難しくなさそうだ。あとはするべきことだけを考えればいい。

 安心して肩の力を抜くと、次第に全身の力みも落ちていった。懐かしさを感じるほどに、ここは静かだ。

 地球によく似た夕日の傍。瞼の裏の暗闇が、私を歓迎した。


<>


 異変が起きたのは二週間ほど経ってからだった。

 種子は無事に発芽し、放射状に半径十メートル程まで蔦を伸ばした頃だった。

 拳よりも二回りほど大きな赤い実が至る所に生って、数日前からやっと自給自足が達成された矢先。私の前に、人間が現れたのだ。ここにはいるはずのない、人間が。

 最初は『沈黙』を名乗る青年と、『未知』を名乗る老婆が私に名前を尋ねてきた。私は孤独とストレスで自分の気が狂ったと思い、逃げるように船に引きこもった。幸い彼らは船までは追ってこないようで、遠巻きに私を眺めているだけだった。

 私は酷く混乱しているようだった。確かなものはそれ以外、指の隙間からすり抜けてゆく。

 数日経っても彼らは消えない。それどころか、人影の数は増えていった。

 もうすぐ船内の食料は尽きようとしていた。私が地球とした約束に殉ずるためには、この扉を再び開ける必要がある。そう決まっていた。


 ここに私以外の地球人がいるはずがない。最初に思ったのはそれだった。そこから思考の枝を伸ばし、彼らが人間である場合とそうでない場合について考えた。

 後者は人型を模した宇宙人か、はたまた収斂的に人型になった宇宙人か、結論を出すには知り得ることが足りなすぎる。幻覚であればよかったが、これだけはっきりと長期的に現れているのだからそうとはなかなか考えられないだろう。

 人間であるなら命題は彼らが何者かに集約する。地球から私を追ってきたのか、それとも地球以外からやってきたのか。支流はさらに二手に枝別れる。私に名を聞いてきたということからすれば、私を追ってやってきたとは考え辛いだろうか。

 では、地球外から人間がやってくるというのか? そんな馬鹿げたことを考えるのか? 人類の起源は地球外であるなどとのたまわって、結論を無限に離散させるというのか?

 可能性の一つを棄却しようとしたとき、私は思い出した。

 いるではないか、ここに。私が。

 罪人のほとんどがテラフォーミングから帰ってこないということが頭上をよぎる。私のことを知らずとも、私の立場を知っている人間。二手に分かれた可能性の流れは、一つの流れに繋がった。

 彼らも罪人で、罪人同士でコミュニティを築いているとしたら、辻褄が合うのではないか。

 心が開いた気がするだけで、扉を開ける手は軽かった。群衆の目が私へと向かうが、構わず進む。

 沈黙を名乗った青年は、今日は少女を連れていた。

「やあ。随分と長かったね。僕は沈黙。覚えているかな?」戯れ合うような口調で、沈黙は語りかける。

「ああ。それより聞かせてくれ、お前たちも罪人か?」

「? 話をするならまずは名前からだろう?」

「名前はわからない。私は罪人だから」

「そうか『罪人』か」沈黙は私の目を見て頷くと、微笑みながら「じゃあ答えよう。君が罪人なら僕らのだれもが罪人じゃない。満足かな?」片目を瞑って首を傾げた。

 はぐらかすような解答だが、沈黙のその目は赤子に摂理を説くような、当然の事を語っている様子だった。

 私は会話の成り立たないこの状況の異質さに、半歩足が退く。まるで宇宙人と話しているような気分だった。

「私の名前は罪人じゃない。なんでそんな、お前たちはここを何処だと思っているんだ?」

 ボタンのかけ違いを見つければ、全てがうまくいくと思っていたから。私は唾を飲み込んで、彼の言葉を待った。


「どこって............––ここは『地球』だろう?」


 柱を失えば、城は崩れる。残された道は、呆然と瓦礫の中で立ち尽くすことだけだ。


<>


 死角から殴られたように、思考全ての脈が押し流される。全てが振り出しの混乱に戻る。彼を嘘つきだと断じるには、気力も何もかも足りなかった。

「じゃあ、本当に名前がわからないんだ。可哀想に」

「名前がなければ、自分が何者かを記録することもできないのにね」

「他者と話すこともできないね」

「だから様子がおかしいんじゃないの」

 沈黙は隣の少女と言葉を交わす。その話し方も異質に響いては、私の足元を揺らした。私は無軌道に墜落しながら背骨だけで言葉を拾っているようだった。

「じゃあ僕が名前をつけてあげようか」

「いいんじゃない。名前なんて、誰かにつけられるか自分で勝手に名乗るかだもの」

「『知恵』は何かアイデアある?」

「さっきの『罪人』とか、ほかには『人間』とか? ぴったりだけどつまらないわね」

 彼らは二人で話を進める。私についての重要なことが、私不在で取り決められる。しかし二人と私の間には、越えられない膜が張っていた。

 そして沈黙が振り返る。

「君の名前は『眩暈』だ。どうだぴったりだろう」

 沈黙と知恵の二人は、その名前が気に入ったのか、誇らしげに微笑んだ。

 否定することはできなかった。事実私は混乱していたし、彼らと意思疎通をするには名前が必要だと思っていた。十年後に地球へ帰って記憶を取り戻すまでの、仮の名前だ。彼らの言う『地球』の意味は、私にはまだわからない。

 この瞬間。理解不能の感覚が、私そのものに加えられた。


「そういえば、あの未知っていう人は一緒じゃないのか?」私は漸く手に入れた権利を試すように使う。

 窓から見た彼らはずっと一緒だった。それなのに、私が船から出た時には、いつのまにか知恵と入れ替わっていた。

「未知は死んだよ」

 沈黙は含みなく言い放つ。

「人間は寿命で死ぬ生き物だからね。眩暈も知っているはずだ。誰かの死を見たり、聞いたりしたから、僕らは自分もいつか死ぬって考える。未知もそのために死んだものの一人だ」

「それ、わたしの受け売りよね?」

 知恵が不満そうに言葉を漏らすと、沈黙は悪びれもせずに開き直る。

「命は模倣をするものだよ。特に人間はね。模倣をしなければ、僕は言葉も話せない」

 知恵は呆れて沈黙した。

「新しいものとは常に今、模倣の切っ先に生まれているんだよ」沈黙は雄弁に語る。

 もし『模倣』が存在するとしたら、そいつはもう喋れない。


<>


 沈黙と知恵はここを『地球』と呼んだ。それを理解することはついにできなかったが、日を跨ぐたびにそれを裏打ちする現象だけは起き続けた。

 民家のようなものが少しずつ現れ、家畜や畑もまるでそれ以前からあったかのように現れた。瞬きをするように日を進めると、次第にここは地球とそっくりの景色に変わっていった。いや、広がってゆくだけでなく発展もしており、まるで地球の歴史をなぞるかのように、技術が発展していったのだ。

 誰に尋ねてもここは『地球』だと答えるばかりで、私の方もだんだんとここが地球のような気がしてきた。

 ここでは私は罪人ではない。あの土と空しかない寂しい星ではなく、人間らしい生活のできる場所の方に、親しみを感じるのは当然かもしれない。

 人間らしい尊厳ある生活には、他者と自由、それと有限の未来が必要だった。

 しかし、私は罪人だった。それは周囲が変わったところで本質的には変わらないものだ。

 だが、それを証明するものは、この星には何もない。私にとってはこの星にいること自体がその証拠であっても、そんなことは誰も知らないのだ。ここで罪人であることを主張することが何の意味も持たないことに気づいて、私は、口を閉じた。

 口を閉じて、六年後に私の地球に帰るために義務を続けた。

 あの約束があったから、私は孤独に呑まれることなく希望を抱いて進むことができた。それは、この『地球』で過ごすうえでも同様だ。現在地がわからずとも、コンパスは目的地を指し示す。暗闇でも光は見える。そこが目指すべき先になる。

 私は土を集め、種子を調整し、植物を育てる。


 そんな中、偶然にも知恵と数年ぶりに再会した。

「なんで眩暈はずっと林檎を育ててるの?」彼女は植物を指してそう言った。

「これは林檎って名前なのか?」

「嘘? 知らないで育ててたの? どういうこと?」

 知恵は信じられないような目で私を見る。

「ねえ。わたしをからかってるの?」

「なら、これはどんなものなんだ?」

 私は苛立ちを隠さずに説明を求めた。

「何って、林檎は林檎でしょ。トートロジーが使える程度には一般的な果物で、甘くって、瑞々しくって」

「これはテラフォーミング用の植物だ。空気中の酸素濃度を一定に保ちながら、水分と栄養を潤沢に含んだ果実を実らせる。あと五年以内に、これをこの星の半分まで繁殖させれば私は本当の地球に帰ることができる」

「あなたって最高に眩暈だわ」

 知恵は頭を押さえて空を仰いだ。

「とにかく、これは私の責務だ。邪魔も手伝いもしないでくれ」ただでさえ建物や道路が広がって、植物の育つ空間が減っているのだ。インフラのおかげで遠くへ植物を植えやすくなったことは有り難いが、場所がなくては意味がない。目標を達成できるかの不安は、私に緊張を与え続ける。

「誰も眩暈の邪魔はしないと思う。ああ、でも『正義』は邪魔するかもね」知恵は通りの反対側を歩く男を見てそう言った。

 その男の顔に見覚えがある気がしたが、それ以上は何も浮かんでこない。

「どんな奴なんだ?」

「悪くはないけど、ヤなやつ。善悪を決めつけるの。神様にでもなってるみたい」

「そうか。なら、『理解』なんて奴はいるのか?」

「いるわ。間違えないけど、勘違いしかできないやつ。でも、過程は参考になるかもね。紹介してあげよっか?」

「いや。結構だ」

 面白くなった私は、自らの知る中で最も強力な神の名を聞いてみることにした。

「『真理』......とかは?」

 それを聞くと、知恵は鼻で笑った。

「さあ? そんなやつ、未来永劫生まれることはないわね」


 植物は蛇のように地を走り、そして生きた血管のように隙間を埋めている。その道筋を視線でなぞってゆくと、高層ビルの群れにぶつかって、視野は灰色に塗りつぶされる。地平線はもう見えない。知覚できるのは、そう遠くない距離だけになってしまった。私はあの裏で何が起きているのかを、想像することもできない。

 私はまだ、混乱していた。皮膚の裏側で虫が這い回るような感覚を潰すように、その果実に手を伸ばす。ずしりと質量が掌を刺激して、さらにそれを確かめるように力を込めて捻ると、首を折った果実は私の手の中にその小さな重さを預けた。

 私はこれが食物であると認識している。では、植物は私をどのように定義しているのだろう。

 私が食べるのか、果実が私に食べさせるのか。齧ると食べ飽きた甘酸っぱい味がした。

 潮の匂いがする。ビルの向こうには、海が広がっていた。


<>


『地球』は生きている。日々、目を開くたびに姿を変えながらも、あたか整合性があるかのような一貫を保ちながら発展を続けている。

 過去は今を残す。未来を見せる。その形式においてだけ言ってしまえば、もうここもあの故郷も変わりはしないのだ。

 すでに私の知る地球と何ら変わらなくなったそれは、私の罪も約束も嘘のように隠して毎日のように歓迎の言葉を囁いた。

 青空と太陽。機械の唸り。人々のざわめき。そのどれもが、遠い昔に置いてきた感傷を拾っては、優しく私に背負わせる。

 私は腐らずに、時を止めようとした。十年という歳月に老いを伴ったとしても、私の故郷はここではないあの星だったからだ。

 原点を失えば人は向きを忘れ、訳もなく風にさらわれる帆船のように自律を失うだろう。

「でも、眩暈は頑な過ぎて指先ひとつ自由に動かせていないようだけど?」

 沈黙が私の心に異論を唱える。こいつらが私の心を読むようになったのは、ここ数ヶ月の変化だった。孤独が生み出した幻影か、はたまた宇宙人の悪戯か、こいつらが何者だったのかは遂に分からず仕舞いだったが、最初から心を揺らすほどの興味もなかったのだ。

「いない奴の受け売りなら結構だ」私はもうずっと耳を塞いでいた。「もうあとわずかで、私は答えを得ることができる。お前たちとは永遠にお別れだ」

 植物の繁殖地は、今まさに『地球』の五割に達しようとしていた。

 その条件を満たしたとき、船の送還システムが解除されて、晴れて私は罪のない清らかな身で地球へと帰るのだ。

「ああ。丁度終わったみたいだね」

 私の知覚よりも先に沈黙がそれに気が付いた。それは私が自分の力で物事を知ることなどできないと突きつけてくるかの様に重く胸に落ちてきた。

「お前の言葉は信じない」私は船へと歩みを進めた。自分の目で確かめないことには現実は動かない。見ていないものを全て許してしまっては何もないも同じだろう。

「今更これが夢だって思っているのかい?」

「夢だろうが現実だろうが、その中で生きるために必要最低限必要なものは判断だ。判断するためには、揺るぎないものを心におかなければならない」

「眩暈は変わったね。生まれてこのかた、人は揺るぎないものなんて得たことはないよ。永久に確認できないものにそれを重ねることでしかそれは満たせないし、それを許した時から間違った過去と未来の形式を呑んでしまう。でもそうすれば、自己だけは揺るぎないものになるだろうさ」

 沈黙の言葉は、可能性に依存して崩れているように見えた。

 取り囲むビル街の中心に、台風の目のごとく文明を避けた場所がある。そこには私の船が横たわり、私の帰還を待っていた。扉を開けて、モニタの表示を見る。焼き付いたパターンの中に鮮やかに明滅する50%の文字と、地球への帰還シークエンス。

 それが意味したのは、唯一絶対的な答え。この十年間、ずっと私が求めていたものだった。

 私は、地球に許された。


 すぐさま私は帰還を選んだ。入力を得た船はその体を起こし、出発の警告を鳴り響かせる。

 一刻も早くこの星から立ち去りたかった。私は自由になったのだから。

 振り返ると船の窓から沈黙や知恵の姿が見えた。

 私は彼らをあざ笑うように吠えた。

「これが答えだ。偽物の地球! 私は本物の地球に帰ることで、私の正しさを証明する!」

 彼らは何か言っているようだったが、よく聞こえなかった。だが思い返すと彼らの言葉には最初から意味はなかったのだと気付いた。

 私のことばも彼らに届くことはなく、ずっと無意味の平行線上を進んでいた。

 船が『地球』を発つ。緑に囲まれた青い星が、小さく無意味に消えてゆく。

 絡まっていたものが解けるように、私の熱は冷めようとしていた。今では何に抵抗を覚えていたのかも忘れ、肉体は虚しく音を響かせるだけになった。

 沈黙がいなくなったおかげだろうか。ここはとても静かだった。


<>


 どれほどの時間が流れただろうか。私はいくつもの星座の間をすり抜けて地球を目指していた。

 ずっと望み、追いかけていた。私は理想だけで生きられるほど、高尚な生き物だっただろうか。期待も偶像も、全ては結末を求めたこころたちの残滓から湧き出ていただろうに。

 座標はもう太陽系を映すまでに近づいた。

 ––あと少しで、故郷が目に映る。あの、青く美しい約束の星が。


 太陽の影から星が見えた。水星、金星......そして、

 そこには、土で覆われた茶色の星が鎮座していた。

 見間違いではなかった。何度数え直しても、三番目の惑星は水も命も構造物もない、数多の星の一粒であった。

 私のいない間に何かが起きたのだろうか?

 船を地球であるはずの星に下ろして、私はその地に降り立った。

 十年ぶりなのだろうか。果たしてその感触は何も語らず、文明の痕跡はおろか、命の源とも言える水さえない大地は、名前を得る前の『地球』のように広がっていた。

 静寂が広がっている。私のことばも、私にとって意味のないものへと変わり始めた。


<>


 私は摩耗した意識のなかで、肯定も否定もせず、地球を眺めていた。

 いつからだろうか。船の外に人影を見るようになったのは。

 あの『地球』と同じように何もないところから人が現れ、何もないところから文明が生まれる。

 それが意味することは、私の知る歴史を持った地球がこの世には存在しないということだった。記憶の中で生きていた地球が、音もなく息を引き取った。


 地球は私の目の中にあった。

 私の目に映り、振る舞うそのものが地球だったのだ。

 扉を開ける。

 人の群れは私へと視線を集める。

 そこに向かって私は、最初の挨拶をした。

「初めまして。私は『地球』。さて、ここは何て星なんだい?」

 見知らぬ誰かが、どこかで見た表情でにやりと笑った。

2022年 07月08日

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