千佳、あせる
中学生の千佳と由紀子は幼馴染である。お互いの家は歩いて2~3分の距離にあり、学校までは毎朝一緒に登校している。その際、由紀子は朝が弱くて寝坊しがちだったから、千佳が由紀子の家まで迎えに行くことがほとんどだった。
それは梅雨の時期の、ある月曜日のことだった。空はどんより曇っていて、雨がぱらついていて、少し肌寒い感じのする朝だった。いつものように由紀子を迎えにやってきた千佳は、玄関のインターホン越しに、由紀子の体調不良を告げられた。学校を休むというのである。
千佳は、またいつもの仮病だろうと思った。由紀子は気分屋なところがあって、また由紀子の両親もそれを容認していたから、なにかにつけて学校を休むのである。小学校の最後の2年間なんかは、あまりにも学校に来なかったから、ほとんど不登校みたいになっていた。中学校に上がってからは、吹奏楽部に入部したこともあって、しばらくは真面目に通っていたが、部活の練習が厳しすぎるというので、2年になるタイミングで退部してしまい、また以前のように度々学校を休むようになった。特に今日のような雨の日は、よく休むのである。それで千佳はこの時、この由紀子の急な欠席を特段気にも留めなかった。
その日の放課後、千佳は美術部の仲間と、渡り廊下をおしゃべりしながら部活に向かっていた。不意に仲間の1人のA子が、やや興奮した様子で千佳にこう尋ねた。
「ねえ、白石さんが3組の中島くんに告白されたって聞いた?」
白石は由紀子の苗字である。由紀子は小学校のころから“白石さん”と苗字で呼ばれていた。女子は下の名前に“ちゃん”づけで呼ばれるのが普通だから、こういうところに由紀子の学校での立ち位置が現れている。由紀子は、悪い言い方をすれば、周囲から浮いていた。それは不登校になりだしたころからで、陰ではみんなに腫れ物に触るように扱われていたのである。ただし面と向かって由紀子のことを虐めたり、避けたりするようなものはいなかった。それには由紀子の優れた容姿や他者を寄せ付けない雰囲気などが大いに関係していた。
それはさておき、由紀子が告白された話である。これを聞いた千佳は、驚きのあまり絶句してしまった。初耳だったのである。そしてすぐに「まずい」と思った。由紀子の一番の親友とされている自分が、このことを「全く知らない」では済まされないと思った。仲よくしているように見えて、実は由紀子からは全く相手にされていないと思われるのは、自分の名誉に関わることで、何としても避けなければならないことだった。
しかし、その場にいた他の友人が驚いてA子に詰め寄ったおかげで、千佳はその危機を免れた。A子は言った。
「私も人から聞いただけだから、よくわかんないよ」
「千佳は白石さんと仲良いから、何か知ってるかなと思って……」
みんなの注目が、再び千佳に集まった。しかし千佳はもうある程度の余裕を持ってこれに応えることができた。
千佳は少しうつむきながらこう言った。
「うん……、でも、人には言わないでって言われてるから……」
「あ、そっか……」
みんなの追求をかわすには、これで十分だった。なぜなら、由紀子はみんなから腫物のように扱われているからである。
千佳は窮地を脱した。そのあとは、もう誰もそのことを口にしなくなった。しかし千佳はその日、もう何をやっても手につかなくなった。