第8話:いつか見た景色、過ごした時へ
とても長い夢を見ていた気がする。
どんな夢かは、覚えていない。思い出すこともできない。
おもむろに目を開けると、真っ白な空間の中にいた。辺りを見渡しても、何もない。そこに広がっているのは、ただひたすらな白だ。
ここはどこだろうとか、そういった純粋な疑問は不思議と胸の中になかった。だが、時間を跳び越えていく中で必然的に通過する空間なのだと、なぜか直感で悟っていた。
「お兄ちゃん」
ふと、どこからともなく妹の舞の声が聞こえてきた。俺のことを呼んでいる。だが周りを見ても彼女の姿はない。この空間に響くだけだ。
「お兄ちゃんはこの世界を捨てて、冒険に出かけるんだね」
「え…?」
世界を捨てる?
「どういうことだ、舞?」
「今ある後悔をなかったことにしても、お兄ちゃんはまた新たな後悔を生むかもしれないよ。お兄ちゃんにその覚悟はある?」
舞…と思われるその声の主は、こちらの問いには答えようとしない。反響してくるその言葉は、純の心の内にある「覚悟」を少しばかり揺らした。才華 唯の死をなかったことにしたら、別の自分にとっての後悔が生まれると、この声の主は言いたいらしい。
しかし、意味が分からない。
「新たな後悔って、なんだよ。それに世界を捨てるってどういうことだよ。答えてくれ」
「その答えはお兄ちゃん自身が見つけないとだめだよ。この冒険は、お兄ちゃん自身が選択して始めたことなんだからね」
声の主がそう言い終えると同時に、純の体が両足から風化するようにポロポロと崩れ始めた。両手の先からも段々と風に流される葉っぱのように欠けていく。
「頑張ってね、お兄ちゃん」
「…」
舞の声に応えることができず、純はただ崩れゆく自分の体を眺めていた。そして最後に顔が塵となって散ると、そこには何も残らない無の空間となった。再び彼の意識は闇の中へと沈んでいった。
死んだのだろうか。目の前は真っ暗だ。
何年か、何十年か、何百年か。暗闇の中を漂っていたような気がする。
靄がかかっていた頭の中が段々と晴れていくのを感じた。無重力の中で浮いていた足も、今は地に着いている。
そして、ふと何か聞こえることに気がついた。鉛筆で紙に何かを書く音だ。それも1つではなく、いくつもの音が重なって耳の中へ入ってくる。
目の前が真っ暗なのは、今自分が目を瞑っているからだ。
しばらく開けていないせいか、くっついてしまったように瞼が重く感じる。力を込めると、ゆっくりその目は開いた。眩しい光が視界に入り込んでくる。
太陽を見るような感覚であったが、それも次第に晴れてきた。そこに広がっていく光景は、いつの日か見た景色であった。
「…」
椅子に座っていた。机には何かの教科書と、作文のための原稿用紙が何枚か並んでおり、拙い字が並んでいる。これは、俺の字だ。
右手にシャープペンシルを持っていることから、今まで自分でこれを書いていたのだろう。
周りを見ると、子供達が机に向かい、同じように原稿用紙に鉛筆を走らせていた。子供達?いや、見覚えがあるぞ。
「安達?お前…安達か?」
俺の声に、左隣にいたその少女は驚いてこちらを見た。
「え、何?加古川」
「何って…」
また、俺の前に座っていた少年もこちらを見る。
「どうしたんだよカコチ」
俺をカコチと呼ぶのは…
「柴野?」
小学校の頃仲の良かった柴野だ。中学校が別々になり、疎遠になってしまった。
彼は様子のおかしい純のことを不審そうな目で見た。
「大丈夫かおまえ?」
「え?」
純はそう言われてから、自身の体に違和感を覚えた。自分が思っている以上に、手が細く、短く、そして華奢だったからだ。またそれに付随して、自らの体全部が小さくなっていることに気づいた。顔や頭に手を当ててみると、やっぱり小さい。髪型も今と違う。
黒板には、『10月19日(木)』とチョークで書かれていた。
「柴野、今って西暦何年だ…?」
柴野は「はぁ?」と言い、答える。
「2006年っしょ。あれ、そうだよね尾形?」
彼は隣の席に座る、尾形と呼ばれる少女に尋ねた。尾形はこくりと頷く。純はその言葉で確信した。
「…成功したんだ。俺、5年前に時間跳躍できた」
そうぼやくと、教室の前方から女性の声が飛んできた。
「ちょっと純くん!何を騒いでいるの」
「え…?」
それは昔よく聞いた、懐かしい声だった。
「作文は終わったの?」
才華 唯がジャージ姿で教卓におり、怪訝そうな顔でこちらを見ている。首を傾げると、トレードマークのポニーテールが揺れた。純は口をあんぐりと開けたまま、固まった。視界が歪んでいき、涙がぽろっと目尻から頬を伝い落ちていくのを感じた。
「ちょっと純くん?大丈夫?」
彼女は教壇から降り、こちらに歩いてきた。泣いていたことに気づいた純は両腕で目元を擦り、その涙を拭きとった。近づいてきた才華を、彼は目を赤くしながら見上げる。
「純くん?泣いてるの?」
「才華…先生…」
亡くなる寸前の、血塗れとなった彼女の顔がフラッシュバックした。苦しそうな息と微かに流れる涙、段々と開いていく瞳孔。全てが脳裏にこびりついて離れないでいたのだ。
「ごめん…ごめん俺…先生。俺があの時誘わなきゃよかったんだ。ごめん…」
あの日「公園で遊ぼう」なんて言わなければ、彼女が死ぬことはなかったんだ。罪の記憶が鮮明に呼び起こされたことで、純は自分がタイムリープしてきたことも忘れてしまった。
「純くん?」
机に突っ伏して泣いている純を、才華はかがみこんで名前を呼びかける。1人の少年が席を立ち、純の元に駆け寄った。そしてその肩を揺らす。
「おいジュン!どうしたんだよ!」
聞き覚えのある声に反応して顔を上げると、そこには昔からずっと一緒に過ごしてきた友の顔があった。
「スイ…?」
あの推里 明だった。12歳と若返ってはいるが、マッシュルームヘアに大きな瞳はこの頃から変わらない。彼とは小学1年生から同じクラスであり、今年で6年目ということになる。
「具合悪いのか?」
「違ぇよ…」
目は真っ赤になり腫れてしまったが、明のおかげか段々と平常心を取り戻していくことができた。彼はニッコリと笑い、純の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「才華センセイ!大丈夫そうっすよ!」
乱暴にされた彼の髪はボサボサになってしまった。才華は心配そうな顔を止めず、なおも純に近づいた。
「大丈夫?どこか痛む?」
純は首を横に振る。
「いえ。なんでもないです…」
俯いたまま、そう答えた。
あなたと会話をするのが、今は苦しい。今は話しかけないでほしいんだ。あの瞬間を思い出して、胸が引き裂けそうになるから。
「なら…いいんだけど」
才華先生は心配そうな顔のまま、踵を返して教壇に戻っていった。