第7話:冒険のはじまり
18時26分。
純は自宅のアパートに着いた。鉄製の階段を登っていくと、真っ先に自分の部屋の玄関まで向かった。
「あれ…」
ない。さっき帰った時には確かに落ちていた水晶玉が、そこになかった。
純は周辺を探してみた。玄関周りにはない。
これから誰かがここに置きにくる、または落としにくる可能性が彼の頭をよぎった。どうする?19時20分まで家で待ってから、また様子を見に来るか?
しかし純は、水晶玉の持ち主を見てみたくなった。もしここまで来て、あの球体を残していったのだとしたら、どんな人物なんだろう。
「ん…」
ふとスクールバッグの閉まりきっていないチャックとチャックの間から紫色の光が漏れていることに、純は気づいた。
それまで疲労していた彼の体は一気に活性化し、バッグのチャックを開けた。
何とそこには、あの水晶玉が紫色の光を放ちながら、教科書やプリント、ノート類に紛れていた。
「どういう、ことだ…」
初めてこれを拾ったのは19時30分前、つまり今から1時間も後のことだ。それにあの時は玄関前に落ちていた。
純は水晶玉を手に取り、まじまじと見つめた。
いつからここに入っていた?
そう考えても、何も分かるわけがなかった。この球体には不明で不鮮明な点がまだあまりにも多すぎるからだ。
そしてこれを眺めていると、随分と前から自分であったかのような、まるで「無くしていたものを見つけた」ような気分になるのだ。とても大切なものの気がして、手放せなくなる。
「何してるの、純」
「うおあぁッ!」
不意に後ろから声をかけられ、純は飛び跳ねた。後ろを振り返ると、そこには母の芹がいた。持っていた水晶玉は、彼の意志とは関係なくスクールバッグに入っていた。
「鍵忘れたの?」
母は今まで買い物に行っていたのだ。
「あぁ、まぁ…そんな感じ」
「…?」
明らかに狼狽する彼の態度に、芹は不審がりながらも自宅の鍵を鞄から取り出した。純はそれを受け取り、解錠する。
ローファーを脱ぎ、一目散に自室へ入っていく。一歩遅れて玄関に入る芹が、閉まってきた扉に体を挟まれ、小さな悲鳴を上げた。
「痛っ!ちょっと純!?…もう!」
「…さて」
スクールバッグを床に置き、ネクタイを緩めた。それをクルクルと巻いて、タンスの上に置く。
さっきとは違って部屋着には着替えず、制服姿のままでバッグの中から水晶玉を取り出し、勉強机の上に置いた。その下に転がり防止でタオルを敷くことも忘れない。
夜になったといえど、蒸すような暑さは部屋に残ったままだ。だが彼は自身の額に流れる汗に気が付かないほど目の前の水晶玉に心を奪われていた。
紫色の光は淡く室内を照らしている。そこに微かに純の顔が反射して映っていた。
俺は今、時間を跳び越える装置を手に入れた。ならば、することは一つ。
「こいつで、過去を変えてやる」
疑惑は確信へ。
確信は、決意へ。
ずっとしたかったこと。誰にも言わなかったけど、後悔していたこと。
それを、これで叶えることができるという機会を得ることができた。
純は、今までに感じたことのないほどに気分が高揚し、緊張していた。幾度となく夢に見てきたのだ。まさに今、ここが夢の中なんじゃないだろうかと思うほど非現実的で、だけどここは現実だと五感を通してハッキリと自覚できる。
過去に戻れるかもしれないと考えたところで、彼の頭に1つの疑問が生じた。
「この受信フォルダに残っているメールの日付より前の時間に遡るには、どうしたらいいんだ…?」
そうだ。今までの2度の時間跳躍では、携帯電話のメールにある日付を引き金としていた。今純の携帯電話に残っている最も古い受信メールの日付は、約半年前。
純が携帯電話を初めて入手したのは中学1年生の頃だ。これを利用して小学生の頃に跳躍するのは不可能ということになる。
待てよ。
…あるじゃないか。当時の日付が記されたものが。
純は携帯電話を机に置き、部屋の角にある引き戸の方へ歩き出す。その戸を開けると、小さな空間が広がっていた。ウォークインクローゼットだ。
小学校の授業で作った図工の作品や当時好きだった漫画、おもちゃなんかが乱雑に押し込まれた物置と化している。彼はその中から何かを探し始めた。捨ててはいない、捨てるわけがない。
あった。純はそれを引っ張り出した。やや埃をかぶっていたため、少しむせる。
『加古川 純 6年の文集』とある。小学6年生の頃、国語や道徳の授業で書いた作文をまとめた本だ。あれから5年しか経っていないから、色褪せたりはしていない。
それを開いてみると、やはり作文の1つ1つに日付がタグとなって付けられていた。また、同様に赤ペンでその作文に対しての評価コメントが付けられている。
「才華先生…」
純が小学5年生の頃からクラスの担任を務めていた才華 唯。彼女が1人1人の作文を読み、コメントしてくれていた。俺は当時、先生から花丸マークをつけてもらうのを楽しみにしていた。自分の書いた作文を読んで元気になってくれよ、なんて思いながら書いてたっけな。
『純くんの作文は魅力的で読んでて楽しいな。セリフから作文が始まってるのも書き出しとしては読者を引き込む効果があるからグッド!ところどころに純くんの心情が綴ってあるのが共感を得られるよ』
運動会が終わった後に書いた作文を読んだ才華先生にそう言われたのを覚えている。実際にその作文を見てみると、随所に赤ペンで波線が引いてあり、『良い表現ですね!』とか、『独特な表現、面白いです!』と書かれている。
学年全体で組体操をしたこと、学年リレーですっ転んで膝を擦りむいたことなんかが記されていた。特に怪我をしたことについては無駄に細かく記述されており、妙に生々しい。書いた当時は相当痛かったことを覚えていたのだろう。これを読んだだけで膝が痛くなりそうだ。
才華先生も同じことを思ったのか、波線で『痛そうですね…』とコメントしている。
純はハッと我に返った。
いかんいかん。このままではいつまでも思い出に浸ってしまう。純は文集を持って勉強机まで戻った。
彼女はこの運動会が終わった1か月少し後に、交通事故でその命を落とすこととなった。俺はあの日、彼女を誘って公園に行き、少しの間遊んだ。そこに突然雨が降ってきたので、2人で学校に戻ることになり、その帰り道で居眠り運転をしていたトラックに轢かれたのだ。
厳密には前を走っていた俺を庇ったために、代わりに轢かれた。罪悪感で今でも胸が張り裂けそうになる。
つまりはあの日の放課後、彼女に干渉せずにいれば、死ぬことはないのだろう。
純は机の上に文集を置き椅子に座ると、1つの仮説を立てた。
メールの日付だけが引き金ではないと仮定すれば、この文集の日付タグでも有効なのではないか。
戻り先を指定するために、彼は作文のページをめくっていった。
2006年10月19日に、道徳の授業で作文を書いている。才華先生が亡くなったのは、同年11月3日。彼女の忌日に最も近い日付となる作文は、これだ。
純は先ほどから止まない激しい心臓の鼓動を抑えるため、何度も深呼吸をした。時間の跳躍に成功すれば、俺は小学6年生に戻っていることになる。その後は、才華先生を救うのだ。後悔した過去を変えてやる。
右手で水晶玉を手にし、作文につけられたタグを左手で抑える。
「頼むぞ…」
上手くいってくれ。それだけを頭の中で何回も繰り返し呪文のように唱える。
そして水晶玉を作文につけられたタグに押し当てた。
直後、視界が真っ白になり、急激に体が浮遊する感覚に襲われた。
さっきと同じだ。ということは…
「うおおおおおああああああぁぁぁぁぁああぁッ!!」
また体を後ろに引っ張られる。体が浮いている感覚のせいで、水中にいて、体が急流に流されていくようだ。先ほどよりも勢いが強く、意識が遠のいていく。
やがて自分が上げている悲鳴も自分の物か分からないくらい遠ざかっていき、純の意識は白い闇の中に飲まれていった。