第4話:きっかけを拾って
2人と別れ、純が自宅のアパートに着く頃にはすっかり日は暮れていた。
錆だらけの鉄製の階段を登り、2階に向かう。
築40年余りのこの小さいアパートに、純は母、妹、叔母と共に暮らしている。
202号室の前に着いたところで、純は足を止めた。
何かが落ちている。
「なんだこれ…水晶?」
手のひらに収まりそうなサイズの球体だ。紫色の淡い光を放っている。不思議な好奇心がくすぐり、純は無意識の内にそれを拾っていた。
「…」
まじまじと見つめる。欠けていないし、地面に落ちていたとはいえかなり綺麗な状態だ。
誰かの落とし物だろうか。そんな考えが胸の中をよぎったが、自然と消え失せてしまった。純はそれを自分が落とした物であるかのように感じ、自然とカバンの中にしまっていた。そしてそのまま玄関のドアを開ける。
「ただいま」
いい匂いがする。奥のキッチンの方から誰かが顔を出した。
「あ、おかえり。舞はどうだった?」
母の芹だ。料理中であったらしく、エプロンで手を拭いながら歩いてくる。
「元気だったよ」
「お母さんも午前に行ったんだけど、眠いって言って寝ちゃってたから。不安だったのよ」
純はローファーを脱ぎ、家の中に上がった。冷房が行き届いておらず、玄関は蒸し暑い。
「夕飯まではまだもう少しかかりそう。ちょっと待ってて」
彼の返事を待たず、芹は部屋の奥へと歩いていってしまった。純はそれを目で追った後、すぐ左にある内開きのドアを押した。壁に設置されていたスイッチに手をかけ、部屋の灯りをつける。
「ふう」
自室に入る。窓が少し空いており、涼しい風が流れ込んできた。
床にカバンを放り、制服を脱ぐ。まずネクタイを解き、それからシャツ、スラックスを慣れた手つきでハンガーにかけていった。ベルトはくるくると巻いてタンスの上に置き、ベッドに脱ぎ捨ててあった部屋着に着替える。
夕飯まで時間があるから、先に課題を片付けてしまうか。
純はカバンの中に突っ込んだプリントと筆箱を探し、引っ張り出した。勉強机にそれを置き、自分は椅子に座る。
シャープペンシルを取り出し、二つ折りにしていたプリントを広げる。明日行われる漢字の小テストのための対策課題だ。
机の端に寄せていたポータブルプレーヤーの電源をつけ、イヤホンを耳にかけた。お気に入りのロックバンドを聴きながら勉強をするのが純は好きなのである。
10分ほど経ったところで、課題が終了した。純はイヤホンを取り、ペットボトルの水を一口飲む。
ちらりと、視線がカバンに向かう。中にはあの水晶玉が入っている…。
純はおもむろにカバンに近寄り、中を開いた。水晶玉は紫色に光ったままでそこにある。
それを取り出し、机の上に置いていた除菌シートで拭き取った。目立った汚れは付着していない、ほぼほぼ新品状態だ。
「…なんだろうな、これ。占い師が使うようなやつだよな」
先ほどはなぜだろう、自然とこれを手にし持ち帰ってしまった。隣の部屋に住んでいる人の落とし物かもしれない。後で確認しに行ってみるか。
「その前にちょっと遊ばせてもらおう」
胡座をかいて床に座り、目の前にフェイスタオルを折ったものを敷くと、その上に持っていた水晶玉を置いた。
この球体そのものが発光していることもあり、これだけでなかなかそれっぽい雰囲気を醸し出している。
より占い師になりきるべく、純はベッド下に収納していたバスタオルを取り出し、頭から被った。
「よし、何を占おうかな…」
水晶玉の上に両の手をかざす。
えーと…そうだな、と数秒考えたのち、思い出したかのように口を開いた。
「舞の容体は…がんは転移していないでしょうか?」
…。
静寂が部屋を包んだ。この球体の光が強まったり弱まったりといった反応すらない。
こういう場合、頭の中に声なんかが響いてきて、それを占い相手に伝えるのだろうか。
気を取り直して、純は再び両手を水晶の上にかざした。
「俺の将来…人生上手くいくにはどうしたらいいか、教えてください」
他人を占うのがダメなら、まずは自分自身だ。
…しかし、訪れたのはまたも静寂。水晶に変化はないし、そういった声が聞こえてくる気配もない。微かにキッチンの方から物音が聞こえてくるくらいだ。
「ダメか」
見た目も綺麗だし、どこかにスイッチがあるわけでもないのに淡く紫色に光り続けているから、ひょっとしてとは思ったのだが。
隣の部屋の人に確認して、持ち主がいなかったら、部屋のインテリアにでもしようか。そう思い、純はそれをフェイスタオルで包み、机に積んでいるテキストやノートの上に置いた。
再度椅子に座り直し、携帯電話を開く。時刻はもう20時を回っていた。
メールが何件か届いている。
19時25分…およそ40分ほど前か。送り主は…
「スイか。なになに…?」
明からだった。
『そういえば明日は僕の好きなバンドのアルバムの発売日なんだ!一緒にタワレコに行くぞ!』
「急だなぁ、いつも」
そうは言うものの、純は嬉しかった。
明日は土曜日。一人で過ごすのは憂鬱な自分にとって、こうして誘ってくれる人がいると助かる。その口実がなんであれ。
「『分かった。何時にスイの家行けばいい?』っと…送信」
メールを送り、携帯を置いたところで、足場が悪かったのか、フェイスタオルから水晶玉が転がり落ちてきてしまった。
「おっと」
机の上を転がり、その先にあった開きっぱなしの携帯電話にコツンと当たった。
その瞬間。
目の前が急に真っ白になった。その直後にズキンとした頭痛と耳鳴りが純を襲った。
「ぐっ…うわああああああああぁぁぁあぁ」
何が起きた。分からない。
加えて体が浮いたような感覚。地面に足がついていない。
周りを見ても一面真っ白だ。まさか…失明した?
言いようのない恐怖心が湧き上がってきた純は、今もまだキッチンで夕飯の支度をしているはずであろう母の名を呼んだ。
しかし声が出なかった。いや、出ているかもしれないが、耳鳴りが大きすぎて聞こえないのだ。
涙が滲んでくるのと吐き気で混乱する自分を必死に落ち着かせる。
視界は真っ白な中、意識が遠のいていく感じがして、純は死を悟った。きっとバチが当たったのだろう。過去犯してきた罪から裁きにあったんだ。
どうせ死ぬなら、過去の後悔を晴らしてからがよかったと思った。このままでは、この心残りから成仏できない気がするのだ。
そして舞のことも気がかりだった。父を失ったことで彼女は酷く落ち込み、一時期は学校にも行けないくらいに憔悴してしまったのである。俺までいなくなってしまったら、彼女は…。
そんなことを考えているのも束の間、純は無の空間の中で、眠るように倒れていった。