第21話:ミス・ライク・イエスタデイ
なぜ?なぜ?なぜ?
ぐるぐると頭の中で疑問が飛び交うが、それも束の間、純はすぐに理解した。
彼女は、警察に通報したじゃないか。
あぁ、やっぱり。この人…蜂須賀は、葵を狙っているんだ。
「…知ってる?」
純が答えなかったからか、蜂須賀はもう一度訊き直した。先ほどの笑顔はない。無表情で、威圧的な雰囲気を放っている。
「知り…ません」
断り方が自分でも分かるくらい粗末だった。純の言葉を受けた蜂須賀は、表情を変えることなく携帯電話を彼の前から離し、ポケットにしまった。
「そっか〜」
わざとらしく言うと、蜂須賀は校舎の方を見た。
「この学校にいるってことは知ってるんだけどな〜」
わざわざこいつは、葵のためにここまで来たというのか。葵を見つけて、どうするつもりなんだ?
湧き上がる疑問を抱くばかりで、何一つ彼にぶつけられないでいた。自分が標的にされたらということを考えると、言葉が出ないのだ。何を言っても敵視されてしまいそうな気がして。
「あっ。僕とこの子はね、友達なんだよ。怪しまなくていいからね」
付け足すように蜂須賀は笑いながら言った。
「でもねぇ、ちょっとトラブルが起きちゃって…。それで、あの子に謝りに来たんだ」
彼は項垂れる素振りをしてみせた。こちらからは向こうの表情は見えないが、笑っているに違いない。純はこちらを見ていない蜂須賀の背中を睨んだ。
やはりこのままでは才華先生だけでなく、葵も危険だ。P・スフィアでタイムリープをしよう。葵が尾行した日に戻って、俺が彼女を止める。そうすれば、彼女が蜂須賀にマークされることがなくなる。まずは蜂須賀から葵を遠ざけることを優先事項としよう。
「そうだ。君もこの亜志麻ちゃんと知り合いならさぁ」
また不気味な笑顔を浮かべて、蜂須賀はこちらを見た。
「僕のこと、何か聞いてるんじゃない?」
純は胸の内を見透かされているような、気持ちの悪い感覚に襲われた。やはりバレている。俺が葵と友達であることに、気付かれた。
それもそうだ。この人に会ってからというものの、俺は全身のこわばりが取れないのだから。「蜂須賀さん、あなたを知っている」と自己申告しているようなものだ。
「知ら…ないです」
そうだ。あくまで俺はあなたのことは知らない。
純は今度こそ踵を返し、全速力で走り出した。湧いて出る恐怖心から、今までで一番速く走ることができた気がした。火事場の馬鹿力というものなのだろうか。とにかく必死で、家まで走った。
途中、何度も転んだ。それでもすぐに起き上がり、走った。
家に着いた頃、純は片方の靴が脱げていることに気づいた。靴下も傷んで破けてしまっている。転んだ衝撃で膝は擦り剥け、手の平も内出血を起こしていた。
扉を開けて家の中に入る。急いで靴を脱ぎ、階段を駆け上がっていった。膝の傷口から血が滴り落ちてくるのも構わず、純は2階のリビングに駆け込んだ。
ドアを開けると、母の芹がテーブルに座ってテレビを見ていた。
「母さん…母…さん…」
母の姿を見た途端、涙が溢れてきた。芹はボロボロの純を見て、あんぐりと口と開けた。
「純…ちょっとどうしたのそれ-」
彼女が言い終わる前に、純は彼女の胸に飛び込んでいた。一気に安心して、涙が止まらなくなってしまった。
芹が何を言おうとも聞かず、彼は声を上げて泣いた。彼女も何も言わず、彼を抱きしめた。
怖かった。本当に怖かった。追いかけられて殺されるんじゃないかと思った。だが母を見た途端、そんな恐怖心も和らいでいった。
しばらく純は泣き続けた。
泣き疲れるということは本当にあるんだな、と純は思った。
自分でもどれだけ泣いたか分からない。安心したからか、とてつもなく眠くなってしまった。
ひとまず芹に傷の手当てをしてもらい、純は自分の部屋のベッドに横になっていた。椅子には芹が腰をかけており、純の方を見ている。
「いじめられたわけじゃないのね?」
不安げな様子で、芹は彼に問いかけた。彼は無言で頷いた。
「や…やばい男の人に追いかけられて…。俺とスイ、まじでやばかった…」
嘘をついた。事実に掠っている嘘だ。
「それで、めちゃくちゃ転んだ」
眠いのに、怪我をしたところはジンジンと響くように痛む。芹は安心しきっていない様子のまま、純を見つめる。
「さっき、警察に通報しておいたから」
ぼそっと、彼女は呟いた。蜂須賀はこれで2回通報されたわけだ。でもそれじゃあ…
「それじゃ…意味がないんだ…」
「え?どういうこと?」
芹の問いに、純は応じなかった。一刻も早くP・スフィアを探さなければ。だが母さんがここにいる限り、それができない。
あれの存在は俺以外の何者にも知られてはいけないのだ。
「とにかく」
芹は擦り傷や痣で汚れた純の顔を見て、言った。
「夕ご飯までまだ少し時間があるから、ちょっと寝てなさい」
純は首を縦に振れずにいたが、その眠気に抗えなかった。ふかふかの掛布団が心地よく、ベッドから起きることができない。
母さんは俺が寝るまでここにいるつもりなのか。出て行ってくれよ。そう言おうとしたが、口が思うように動かなかった。体が子供だからか、疲れやすいのだろうか。
純の意思に反して頭が全く働かなくなってしまい、段々とその瞼も下りてきた。
「…おやすみ」
芹の言葉を最後に、純は静かに眠りについていった。