第19話:焦燥
5時間目が始まると、純は先程のメモ帳を机に置いた。教科書で隠しながら、それをペラペラと捲る。
葵の話を聞く限り、蜂須賀は才華先生に対して暴力を振るっていることは明白だ。きっと彼女がトイレに立った後、部屋の鍵を閉め、才華先生を積めたのだ。
その理由はまだ分からないが、脅迫を受けていたりといった恐怖で支配されていることに間違いは無い。
才華先生は今危険な状況にある。このまま解決できなければ、彼女は史実通り交通事故で死ぬのではなく、彼に殺されてしまうかもしれない。
純はそこまで考えて、不思議に思った。
ただ過去に戻っただけなのに、才華先生の死因が変わることはあるのだろうか。そもそも、なかったはずの彼女の体にできていた青痣や当時は認知していない人物まで登場しているなど、元々の2006年とどこか相違を感じる。
P・スフィアを持って時間跳躍をした事で、元々の2006年に何らかの影響を及ぼしたという可能性。
忌日まで変わってしまったとしたら。いつ亡くなるか分からなくなってしまうとなると、彼女の死を回避するのは簡単ではなくなる。
純は顔を上げ、視線を黒板の方へ向けた。才華先生がこちらに背を向け、黒板にチョークを走らせているのが見える。
そしてまた視線をメモに戻した。ページを捲ると、葵が蜂須賀の家を飛び出し、交番へ向かう様子が殴り書きされていた。
彼女はそこに勤めている巡査に、蜂須賀の家を訪ねるよう頼んだ。
純は思った。
その後はどうなったのだろうか。彼女の話では、巡査が家を訪ねるところまでであり、その結果については何も聞かされていない。そしてこの出来事があったのは、1か月程前のことだ。
そこから今まで何もなかったということか?
いや、そんなはずはない。才華先生はその間も暴力行為を受けていたはずだ。
…あの痣だ。
葵は、あの時点では痣はないと言っていた。ではいつできたか?
彼女が蜂須賀の家に行った日から、一昨日あたりまでがその範囲となるだろう。
どうする?彼女が蜂須賀の家に向かう日を指定して、P・スフィアで戻るか?葵の代わりに俺が蜂須賀の家に行くことで、彼女から聞いた話をそのまま体験することも可能だ。
正直なところ、純は怖かった。まだ実際に会ったわけではないが、相手は凶暴性を孕んでいる。自分が才華先生のように暴力を受ける可能性だってあるのだ。
葵だって…。
葵?
純はふと、先程彼女から聞いた話を思い返した。
巡査を蜂須賀の元へ手配したのは、葵だ。彼は訪ねてきた巡査に対して、何か適当な理由をつけて追い返したに違いない。
次に彼が思うこととは…
自分のことを警察に話した人物への恨み、だろう。
純は自分で考えて恐ろしくなった。蜂須賀は葵を恨んでいるはずだ。途中で家を抜け出され、警察にチクられたのだから。
そうなると葵も危険だ。彼女はその事に気がついていない。
やはり跳ぼう。葵が蜂須賀の家に行った日に。
確認のために純は机の横に引っ掛けていたランドセルを開け、中を見た。
そして言葉を失った。
水晶玉は、そこにはなかった。全身が熱くなり、嫌な汗が滲み出るのを感じる。
パジャマのポケットに入れたままだっけか?どこかで落としたか?寝る前にランドセルに入れたつもりだったのだが、教科書を入れた時に無意識のうちに取り出してしまったのだろうか。
純は周りのクラスメイトに小声で話しかけた。
「なぁ柴野…安達…お前ら、紫色に光る…水晶玉を見なかったか?」
「すいしょうだま?」
「あの、占いする時に使うやつだよね?知らなーい」
「おれも知らねー」
しかし、次々に首を横に振られた。
「…そっか、分かった」
自分の机に向き直る。
昨日の夜はかなり眠く、今は記憶が曖昧だ。
純は下唇を噛みしめた。時間跳躍できない上に、P・スフィアの場所も分からなくなってしまった。もし母に見つかってしまったとしたら。意図せず彼女自身がタイムリープしてしまったとしたら。
仮説通りにいけば、P・スフィアは母が所持したまま過去に跳ばれることになる。
いても立ってもいられなくなり、純は小刻みに貧乏ゆすりをした。今すぐ帰って確かめなければならない。
授業中であったが、純は席を立った。皆が彼を見る。
「純くん?どうしたの?」
こちらを見るのは、才華先生も例外ではなかった。純は机の横に引っ掛けていたランドセルを手に取り、教室の後ろの方へ歩き出す。
「すいません、お腹が痛いので帰ります」
振り返らずそう言い、扉を開けて外に出た。




