第17話:夕暮れの魔物
―蜂須賀宅。
トイレを済ませた葵は、2人がいる部屋へ戻った。
部屋の前に立つと、ドアノブを捻り、引いた。
だが開かなかった。なぜかは分からないが、鍵をかけられてしまったようだ。
蜂須賀さん―
そう呼ぼうとした時、部屋の中から声が聞こえてきた。
『はぁ?なんでこれだけしか持ってないの』
それは男の声だった。続いて何か重い物が落ちる鈍い音がした。女性の小さな悲鳴が重なって、葵の耳に届く。
彼女はドアノブに手をかけたまま、動けずにいた。部屋の中で何が起きているのかという好奇心から、耳を立ててみる。
『ごめん…今月ちょっと生活費厳しくて』
謝っているのは、才華先生?その声を聞くに、やけに落ち込んでいる様子だ。
『そんなの聞いてないし。金がないなら別の仕事とかして稼げよ』
男の威圧的な声が響く。
『学校の先生なんて職業、大した給料が貰えるもんじゃないっしょ?もっと高月給な仕事なんていっぱい転がってるよ?』
『そんな…ひどい…』
葵は自分の心拍数が急上昇していくのを感じた。ひょっとしたら自分は、来てはいけないところに来てしまったのではないかと思い始めていた。
才華先生が静かに泣いているのが聞こえる。
『泣かれても何も変わらないぞ。とりあえず今お前の持ってる金は全部貰う。残りは1週間後に』
『え…無理だよ。私もうお金ないよ』
『…だからさあ。金がないなら副業でもして稼げって言ってんだろ?それか学校の先生なんて辞めなよ』
蜂須賀さんの苛立った声は、葵の心臓にまで突き刺さるように鋭かった。才華先生は涙声で反論するが、彼は聞く耳をまるで持っていないどころか、まともな解決案を提示していない。
『っていうかそろそろ、亜志麻ちゃん…だっけ。戻ってくるだろうから、泣くのやめろよ。今すぐに』
その声とともに、部屋の中でこちらに歩み寄ってくる音が聞こえてきた。きっと鍵を開けにくるのだろう。
葵はドアノブから手を離したが、動けずにいた。心臓を鷲掴みされたように、息が苦しくなるのを感じる。
静かに解錠され、ドアが開かれた。
『…』
男が無表情でこちらを見下ろしていた。葵はその無機質で、一切の感情を表にしていない顔に恐怖を抱いた。
蜂須賀はそうやってしばらく葵を見ていたが、急に笑顔になった。
『おかえり!』
そう言って彼女を部屋に招き入れる。葵はそのまま、部屋の中へ足を踏み入れた。
そして思わず息を飲んだ。
才華先生が泣いていたのだ。というよりも、目尻や白目の部分が赤くなっていたことから、今の今まで泣いていたのだろう。
いつも明るい笑顔を浮かべている才華先生。彼女は、葵と目が合うなりニコッと笑った。それが無理やり作った笑顔だということは、子供であってもすぐに分かった。
『どうしたの?突っ立っちゃって』
後ろから蜂須賀の声がかかる。振り返ると、そこには葵のよく知る笑顔があった。しかしながら今の彼女にとって、その笑顔は不気味でしか無かった。
ローテーブルを囲むように座布団が敷いてあり、部屋の手前が青いの座っていたところ、そこから反時計回りに蜂須賀、才華となっている。
そして蜂須賀の正面(葵の左であり、才華の右)には、テレビが専用のスタンドに乗った状態で置いてある。テレビの後ろは壁なのだが、そのテレビの裏から様々な配線が伸びており、混雑している影響で少し壁から離れてしまっていた。
葵は元いた座布団に座り直した。それに続いて蜂須賀も座る。
そして彼はリモコンを手に取り、テレビの電源をつけた。葵がトイレに行く前は電源は入っていたのに。
鑑賞していたアニメの続きを再生するも、映像は葵の頭に入ってこず、その音声も右から左へ抜けていってしまう。蜂須賀はそんな上の空である彼女を横目で見るなり、小さくため息をついた。
才華先生は小さく体育座りをしながらテレビの方を見ているが、どこか遠くを見ているようだった。時折鼻をすすっている。
その度に蜂須賀が才華を睨んだ。彼の視線を感じているのか、彼が視界に入らないように首をもっと曲げ、顔を逸らす。
異様な空間に、葵は思わず立ち上がった。
『…どうしたの?』
蜂須賀が葵を見上げる。そこに笑顔はなかった。彼女は床に置いていたランドセルを拾う。
『帰ります。お菓子とか…ごちそうさまでした』
彼の顔も見ず、反応も待たず、葵は部屋を出て行こうと歩き始めた、一刻も早くここから立ち去りたいという思いから、その足が早まった。それを目で追う蜂須賀は何かを言おうと口を開けたが、何も言うことはなかった。
葵は逃げるように彼の住むアパートを後にした。思わず彼の部屋の方を振り返る。
『!』
なんと蜂須賀が部屋の窓から葵のことを見ていたのだ。心臓が破裂しそうなくらい息苦しくなった。彼女は前を向き直し、ひたすらに走った。
見慣れた通学路まで戻った彼女は、走るのを止めた。
息も切れ切れに、葵は彼の家に才華を置いて帰ってきてしまったことに今更気づいた。あの様子だと、彼女はまた蜂須賀さんに何かされるかもしれない。
『警察…。警察に行こう』
真っ先に思いついたのはそれだった。自分では解決できないのは分かりきっている。葵は自身に言い聞かせ、また走り出した。
家とは少し離れたところにある交番に葵はやってきた。
ガラス扉から中を見ると、巡査が1人、デスクに向かって何やら仕事をしているようであった。
彼女が扉を掌で何度か叩くと、彼は顔を上げた。葵と目が合うと、手に持っていたものを机に置いて、こちらにやってきた。
扉を開けると、しゃがみ込む。ちょうど葵の目線と彼の目線がほぼ同じ高さになった。
『どうしたの?』
張り詰めていた緊張の糸が緩み、その安心から葵は巡査に抱きついていた。彼は驚いたが、声を上げて泣く彼女の背中に手を回し、さすった。
ひとしきり泣いたあと、葵は交番の中にあるパイプ椅子に腰掛け、事の経緯を話した。
『そんなことが…ねぇ』
にわかには信じがたい、といった様子だ。しかしながら先の葵の状態、泣きやみはしたが目を腫らしている顔を見ると、あながち嘘をついているようにも見えないようである。
『その人の住所は分かる?』
巡査はメモ帳とボールペンを取り出した。葵は首を横に振った。
『住所は分からないけど、アパートの名前なら分かります』
あの時は何となくであったが、アパートの入り口にある看板を見ていてよかった。そのまま彼女は蜂須賀の住むアパート名を告げた。巡査はメモ帳に書き込み、後ろのポケットにしまいこむ。そしてテーブルに置いてあった電話の受話器をとり、ダイヤルを押す。
誰かと少し話をした後、受話器を置いた。そして葵の方を見る。
『…ありがとう。今もう1人おまわりさんを呼んだから』
その『もう1人のおまわりさん』は、程なくして白色の自転車で現れた。今まで対応してくれた巡査よりも少しばかり若く見える。
2人は何やら深刻そうな顔で話していた。若い方の巡査がチラチラと葵の方を見ている。
『…ということだ。あとは頼んだぞ』
『分かりました。…気をつけて』
話が終わったようで、最初に対応してくれた方の巡査が葵を見た。
『じゃあ亜志麻さん。私は君が教えてくれたところに行くから、君はこのおまわりさんに家まで送ってもらいなさい』
そう言い、彼は外に停めていた、自身の白色の自転車に乗り込んだ。前輪のライトをつける。
『あの…ありがとうございます』
葵が会釈すると、巡査はニコッと笑った。前に向き直り、2人に背を向けると、そのまま漕ぎ始める。
やがて彼の姿が見えなくなると、若い巡査が「さて」と言い、葵を見た。
『後ろには乗せられないから、歩いて帰ろうか』
そして彼は自転車を手で引きながら歩き、葵もその横に付いた。まだ今は9月ということもあり、夏の熱がまだ冷めきっておらず、18時を回っても蒸し暑かった。巡査は半袖のシャツであったが、その暑さに胸の辺りを持ってパタパタと仰いでいた。
自宅までは徒歩で10分ほどであり、特に何事もなく到着した。巡査が横に付いているということもあり、葵は安心して帰ることができた。
『ここでいいのかな?』
彼は自宅にいる母に、葵の帰宅が遅くなった理由をおおまかに話し、元来た道を戻っていった。
門限の17時を破ったことで葵は母にこっぴどく叱られてしまったが、彼女は才華先生のことが気になって仕方がなかった。
「…と、まぁこんな感じ」
葵は蜂須賀の家で起きた一連の流れを一通り話し終えた。彼女の話を、純はメモに箇条書きで書き留めた。
彼女は誰かに共有できたことで肩の荷が下りたのか、先程よりは幾分か顔色も良い。
「もう少し聞かせてほしいことがあるんだ」
純の言葉に、葵は小さく頷いた。
「いいよ」




