第15話:オーバーオールの少女
教室に着くと、ちょうど朝礼が始まるところであった。純は自分の席の横にランドセルのフックを引っ掛け、席に着く。彼に引き離された明も遅れて教室に入ってきた。
扉が開く。
「はーい、朝礼始めますよ〜!」
才華先生の声が聞こえるのと同時に、彼女が入室した。茶色の前髪は下ろし、後髪は束ねてポニーテールに、いつものジャージ姿で、片手に出席簿を持っている。
だが、その表情には違和感があった。いや、違和感ではない。
「先生…」
純から見て右の口角に絆創膏が貼ってあった。また、隠しきれないほどに、絆創膏の下が青黒く変色している。
純は右斜め後ろに座っている明を見た。彼も才華先生を見つめてはいるが、事の重大さを純ほどには理解していないようだ。
あの外傷が誰の物かの目星がついているのは、恐らく俺だけだろう。
「せんせー、それどうしたのー?」
前に座っていた柴野が、抱いて当然の疑問をぶつける。指摘された才華先生はペロッと舌を出して笑った。
「これ?机の角にさ、偶然ぶつけちゃったんだよね。先生ドジっちゃって」
あらかじめ用意していた答えのように、純には聞こえた。訊かれることを前提としているような。
嘘をつかないでください。今すぐに言いたかった。
「じゃあ日直の人、挨拶をお願いしようかな。今日は…」
純の目線と才華先生の目線が一瞬だけ合ったので、彼は思わず目を逸らした。心拍数が上がるが、その原因は恋心ではなく、彼女に今の心境を悟られそうになる緊張から、である。
今日の日直は純の後ろのクラスメイトだ。それを確認するため、才華先生はこちらを見たのだ。
「お願いします」
彼女から指示を受けた2人は頷き、号令をかけた。
「「起立!」」
皆勢いよく席を立ったので、純はワンテンポ遅れた。
「「礼!」」
その2人に続いて、皆が才華先生に向けて頭を下げる。彼女もまたそれに応えるように頭を下げた。
「はい、おはようございます」
その後は、出席をとり、何事もなく朝礼は終了した。
才華先生に話しかける時間を捻出できないまま、4時間目まで終わってしまった。給食の時間が終わると40分ほどの昼休みがある。純はメモ帳とボールペンを持って、隣のクラスにいる、とある人物の元へ向かった。
教室の扉は開きっぱなしだったので、彼はそのまま中に入る。その人物は教室の隅で、女子生徒数人と歓談していた。
「アッシー!」
アッシーこと亜志麻 葵は、純のいる2組の隣、1組に属している。彼の声に気づくと、小さく手を振った。
「ジュンじゃん、どうしたの?」
5年後の彼女とは容姿や雰囲気が大きく異なっていた。ギャルのようなメイクをしっかりと毎日決めていた5年後の葵と異なり、今の彼女は髪色は自然な黒で、また後ろを左右で分けて編んだものを下ろしていた。所謂「おさげ」だ。そしていつもオーバーオールを着ていた。今日も例外ではなく、薄手のボーダー柄の長袖シャツに白色のオーバーオールだ。
普段のギャルっぽい見た目とは大きく違うお淑やかな雰囲気の葵に、純は目の前の人物が本当に葵なのかどうか分からなくなってしまった。
自分を見て硬直している純に、葵は首を傾げる。
「何?」
その声で彼は我に返った。当初の目的を思い出し、葵に告げる。
「そうだ。…ちょっと来てくれ!」
そう言うなり純は彼女の手を取り、教室の外へ連れ出した。
「えっ!?えっ…ちょっとジュン!?」
突然のことで驚いたのと、友達とはいえ男子にいきなり手を握られてしまったことで、葵は気が動転してしまった。そんなことも構わず、彼は一直線に進んでいく。周囲の生徒が通り過ぎていく2人を、何事かと見ていた。
「…ここなら大丈夫だろ」
純が葵を連れてきたのは、屋上だった。
「ねぇちょっと…ここって立ち入り禁止でしょ?」
「いいんだよ。ていうか、誰も来ないようなところでしか話したくない内容だし」
「はっ…それって…」
葵が急に頬を赤らめた。純はまだ彼女の手を握っていたことに気づき、それを離した。
葵は純と少し距離を置き、片手を胸に当て深呼吸をした。目を伏せてはいるが、チラチラと純の顔を見ている。
「…?」
葵の様子がよく分からず、純は何か変なことをしたかと自分に問うた。やがて沈黙していた葵が、口を開く。
「それって、あたしを好きってこと…だよね?」
純は固まった。
「…はい?」
予想もしていなかった言葉が飛んできたことで、思考が一瞬停止したが、とんでもない勘違いをされていたことに気づき、すぐに平静を取り戻した。
「え…違うの?」
「…んなわけないだろ。何言ってんだよ」
純の素っ気ない態度と期待を大きく裏切られたことで、葵も固まった。そしてその顔が段々怒りに満ちていく。
「じゃあなんで手とか握るの!?手を握るのはね、好きな人とだけなんだよ?」
純はため息をついた。12歳の女子はもうそういうことで意識するほどマセているのか。
「ごめんごめん。でも俺、子供は恋愛対象に入っていないからさ」
言ってから、純はまたやってしまったと思った。火に油を注がれた葵はさらに怒りを露わにする。
「はぁ?あんたも子供でしょ!ガキ!バカ!もう知らない!」
そう吐き捨てるなり、葵は屋上から出て行こうと走り出してしまった。純は慌てて彼女を引き止める。
「待ってって!ごめん!今日はアッシーに訊きたいことがあって連れ出しちまったんだよ。…その、時間があんまりなくて」
彼女の手を掴む。
「痛ッ」
涙を滲ませた顔で睨まれるが、純は追い討ちをかけた。
「今度フルーツ牛乳を奢るから!」
そう言うと、怒りに満ち溢れていた葵の表情が、若干緩んだ。ドアノブにまで手をかけていたところだが、捻るのを止める。
フルーツ牛乳は彼女の大好物だ。明と3人で銭湯に行った時はいつも瓶状のそれを飲んでいた。
「…ほんと?」
余程逆鱗に触れたのだろう。まだ機嫌が悪そうな顔で純を見ている。彼は何度も頷いた。ここで逃すわけにはいかない。なんとしても昼休み中に話してもらいたいことがあるのだ。
「約束だ。今度銭湯行った時な」
「…分かった。許してあげる」
あっさりと許された。
相手が子供でよかった、と純は思った。安堵の息をつき、胸を撫で下ろす。葵はドアに寄りかかり、純の顔を凝視している。
「何…?」
5年前に戻ってから、顔を眺められることが増えた気がする。そしてその度に何かしてしまったのかと思い、心拍数が上がっていくのを感じるのだ。
「なーんか、今日のジュン、おかしくない?」
ドキッとした。才華先生にそう思われるのはともかく、こんな子供に違和感を持たれてしまうなんて。
「おかしい?…どこが?」
「…なんか、いろいろ」
とは言え、彼女もなんとなくとしか感じていないらしい。今話をしている相手が5年後の加古川 純だと伝えても、絶対に信じないんだろうな。
「ま、いいか。で、話したいことってなんなの?」
葵は腕を組み、純の質問を待った。彼は咳払いを1つする。
「実は…」
純は話し始めた。校庭からは、無邪気に遊ぶ生徒達の声が聞こえてきていた。




