第14話:グッド・モーニング!
「ューン…」
どこかで誰かを呼ぶ声がする。目の前は真っ暗で、とても遠くで反響している。
辺りを見回してみても、一帯が暗いために自分がどこを向いているのかが分からない。
「…ジューン…」
女性の声だ。聞き覚えのある、馴染み深い声。
「こら!純!」
「え…」
視界に人影が映る。誰かがこちらを覗き込んでいた。
「昨日目覚まし時計かけないで寝たの!?もう7時半だよ!寝坊!」
「寝坊…?」
芹だった。ものすごい形相で純を睨み、叫んでいる。
純は上体を起こし、両の手のひらを見た。
「そっか、やっぱり夢じゃないんだな」
小さなその手のひらを見て、改めて5年前にタイムリープしてきたのだと純は再認識した。
「?…意味分かんない事言ってないで早く着替えて朝食食べなさい。もう才華先生に連絡したくないよ、遅刻のことで!」
そう吐き捨て、芹は部屋を後にした。純はおもむろに立ち上がり、近くにあったタンスの引き出しに手をかける。それを引くと洋服が綺麗に畳まれ、収納されていた。その中から適当に洋服、ズボンを抜く。
子供用サイズの洋服を着るのは数年ぶりであるため、不思議な気分になった。まだ自分が年相応の小ささに戻ってしまったことに慣れていないせいだろう。
黒のパーカー、カーゴパンツに着替えた純は、2階のリビングへ向かった。
リビングに着くと、ちょうど舞が朝食を終えてテーブルから離れるところだった。入れ違いで純がテーブルに着く。
「おはよー、お兄ちゃん」
「おう、おはよう」
そのまま舞はシンクの横にあるコップから歯ブラシを取った。歯磨き粉をつけて口の中にブラシを入れる。
その様子を見て芹が額に手を当てた。
「台所で歯を磨くなっての…1階に洗面所があるでしょうが…」
「らって…えんろうらいんらもん(だって…めんどくさいんだもん)」
歯磨き粉が泡となったものが舞の口から溢れそうになる。芹は慌ててそれを制した。
「今喋らないで!歯を磨きながら喋らない!」
舞は歯ブラシを動かしながらケラケラと笑った。口の端から歯磨き粉が溢れ、顎を伝って床に滴る。
「ちょっと舞!」
「朝からうるせぇ…」
パンを齧りながら純はつぶやいた。芹がムッとした顔で彼の方を振り返る。
「あんたも早く食べなさいよ。もう10分くらいしかないのよ」
「はいはい」
「返事は1回」
俺が子供の頃、母さんはこんなフレッシュだったっけ…?そんなことを考えながらふとテレビを見ると、ニュース番組が放映されていた。。2011年時点で放送が終了しているものだ。
『今年ももうすぐ11月!11月が終わったら12月!2006年ももう終わりが近づいてまいりましたね〜!』
アナウンサーが別のキャスターに呼びかけている。
『今年の目玉である行事はやっぱり、トリノオリンピックでしたね』
テロップで『トリノ五輪の振り返り』と出てきた。確か2006年2月10日から同月26日まで開催された冬季オリンピックだ。
『ええ。フィギュアスケート女子では荒川 静香選手が見事金メダルを押さえてくれましたね〜!』
そういえばそうだったなぁ。純は小さく頷きながらパンを咀嚼した。
画面に大きく当時話題を集めた技「イナバウアー」の写真が映し出される。
『素晴らしかったですよね〜!当時現地で演技を見ましたが、まさに圧巻の一言でした』
リポーターが感嘆の声を上げる。コメンテーターも同意するように相槌を打った。
純がそれを眺めていると、突如テレビの画面が真っ暗になった。横に目をやると、リモコンを持った芹がこちらを睨みながら仁王立ちしていた。
「は!や!く!…食べなさい!」
鼓膜が破れそうなくらいの怒号に、彼は思わず持っていたパンを床に落としてしまった。
慌ててそれを拾い、口の中に押し込む。そして逃げるようにランドセルを持ち、1階の洗面所に向かった。
10月の下旬ともなると、木造建築の1階は少しばかり冷える。純は歯ブラシを取り出し、シャカシャカと自分の歯を磨いた。
玄関のドアを開けると、誰かが家の前に立っていた。
「よ!ジュン」
「あ、スイ…」
推里 明だった。ズボンのポケットに手を突っ込み、こちらを見ている。純を見て、手を振った。
「おっはよ!一緒に学校行こうぜ!」
子供の明に話しかけられるのは、すごく久しぶりで、なんだか不思議な気分だ。
「おう!」
純は明の笑顔につられて微笑んだ。彼の横に並び、小学校へと歩き出した。
通学路には紅葉が散っていた。誰かが箒か何かで掃除をしたのだろう、道の端に紅葉が集められている。タイムリープする前はまだ秋になる前であったが、こっちでは秋も中盤に差し掛かっていくのだな、と純は思った。
明が紅葉の山に突っ込んでいき、蹴り上げる。積もっていた葉が空中に舞った。
「…」
突然の明の奇行に純は反応できなかった。明は自分の周りを舞う紅葉を見て笑っている。
「あはは!ジュンも来いよぉ!」
「…ガキみたいなことやってんなよ」
そう言ってから、明が今は12歳であることを思い出した。彼は年相応の悪戯をしているだけなのだ。
純が無視して先行してしまったので、明は慌てて後を追った。
「なんかジュン、元気ない?ノリわりーぞ?」
純の顔を覗き込む明。鼻水が少し垂れている。
「スイ、お前鼻水」
自身の鼻を指差すと、明は一瞬キョトンとしたが、それに気づいたようだ。長袖のシャツの袖で鼻水をゴシゴシと拭った。
「うわっ…汚えーなぁ」
「だって拭くものないんだもん」
子供の頃のこいつはこんなにも無邪気だったのかと、純は目の前で意味もなくニヤニヤしている明を見て思った。そうすると、この頃の自分も同じく、鼻水を垂らしても服の裾で拭うような少年だったのかもな。
そういえばと思い出し、純は口を開いた。
「スイさ」
「んー?」
明は道の脇に咲いている花をちぎって、その蜜を吸っていた。その様子を見ても純はもう別に驚くこともなく、続ける。
「…ハチスガって人、知ってるか?」
「え?なんだって?」
何か知っているから聞き返したというよりは、真面目にこちらの話に耳を傾けていないようだ。
「だから、ハチスガって人だよ。聞いたことないか?」
「はちすがぁ?…」
知っているようには見えないが、念の為を思って純は訊いてみた。その名前を聞いて思い当たる節があるのか、明は視線を上に向ける。
「あー、そういや、才華先生に会いにきた男の人が、そんな名前だったかなぁ」
純は目を見開き、明の両肩を掴んだ。
「うぉっ」
「ま、まじか!どんな見た目のやつだった!?」
興奮して息が荒くなる純を見て、明は少したじろいだ。右手に持っていた花が地面に落ちる。
「ぼくが帰ろうと校門を出た時なんだけど、なんかオトナの人でね、『才華先生はいる?』って、きかれたの」
校門で、ということは、待ち合わせだろうか。
「それで?」
純は続きを伺った。明は思い出しながら続きを話した。
「で、ぼく、名前をきいたんだよ。その時に、ハチスガって名乗ってた。そんでその後、職員室に行ったんだよ、才華先生を呼びに」
「…」
「才華先生に『ハチスガっていう男の人が校門のところで才華先生を待ってるよ』って伝えた」
明の言葉に純は息を飲んだ。
「才華先生はその後、どうしたんだ?」
「すぐに帰ったよ。その人に会いに行ったんじゃない?」
「すぐに…」
明に言われ、気にかかった言葉を繰り返し、つぶやいた。昨日もその名前を聞いた才華先生は、血相を変えてすぐに教室を出ていった。
「仕事の途中で、それを放ってすぐに帰ったってことか?」
明は首を横に振った。
「それは分からないよ。でも、うん、すぐに帰っていったよ。ぼくが校門に行った時には、もういなかったし」
「そうか…」
純が肩を落とすと、明は彼の顔を見た。
「てかさー、ジュン。なんでそんなこと気になってんの?」
純も明の方を見る。早速鼻水が垂れ始めていた。
「昨日の放課後、俺日直の日記を書くために残ったんだけど。ハチスガって名乗る男から学校に電話がかかってきたみたいなんだよ」
「えー、まじぃ?」
気の抜けた相槌を打たれ、純の目が少し吊り上がる。彼との間に温度差を感じた。
「職員室にある才華先生の携帯も鳴りっぱなしだったみたいでさ、先生は明らかに動揺した様子で、その後すぐに帰っていっちまって」
「ふぅーん…」
純が明の方を見ると、また新しい花を調達したのか、それの蜜を吸っていた。明はもうハチスガに対する話題に興味がなくなったのだと読み取った純は、それ以上話すのを止めた。
「お前から訊いといて何なんだよ…」
相手が子供であることは分かっているが、それでもイライラを隠せなかった。ため息を1つつくと、純は足を早めた。