第13話:オンリー・イージー・デイ
20時10分。
加古川家のリビングでは、3人で食卓を囲み、夕飯を口にしていた。
最初の「いただきます」から一言も喋らずにシチューを啜る純に、芹の顔つきが変わる。
「何かあったの?」
純は反応せず、黙りこくったまま半開きの目で一点を見つめている。
「あんたに言ってるんだけど、純」
その言葉で我に返った彼は、目を見開いて芹を見た。
「え、俺?」
「そうよ。今日の純なんか変。学校で何かあったの?」
脳内に才華先生の顔が浮かぶ。
「何もないよ」
その通り。自分以外の誰かに話せるような内容ではないのだ。5年後の未来から意識だけ跳んできましたなんて言って誰が信じる?
「嘘。ちゃんと話しなさい」
芹は箸を止め、純の顔を覗き込んだ。彼は芹を一瞥し、またシチューを掬うスプーンに視線を戻す。そして彼女を見ずに口を開いた。
「青痣があったんだよ…才華先生にさ」
独り言を呟くように。芹は聞き返した。
「青痣?」
彼は頷く。舞は無言でシチューを食べており、時折交互に2人を見ている。
「どこにあったの?」
さらに訊く芹に対し、純は先ほど見た光景を思い出しながら答えた。
「左手首と、左首の付け根にあったのが見えた」
芹はコップに入った水を1口飲んだ。
「ぶつけたんじゃないの?」
不審に思わないのも無理はない。ただの青痣だ。
「俺も最初はそう思ったよ。でも…」
「…何よ」
自分でどこかにぶつけたわけではないとしたら。そう考える根拠が、純にはあった。
「才華先生って、付き合ってる人とかいたりする?」
その言葉に、芹は「あぁ、それなら」と反応した。
「この前三者面談をした時、『交際している人がいる』みたいなこと言ってたわね」
思い出しながら話す芹に対し、純は身を乗り出した。
「えっマジ?その人の名前って、ハチスガ?」
だが彼女は首を横に振った。
「いや、名前までは聞かなかったけど」
「…そっか」
彼は椅子に座り直した。肩を落としている様子を見て、芹は「ハチスガ?」と聞き返す。
「誰、ハチスガって?」
純はシチューを1口啜った。
ハチスガという人物に関しては、情報が足りていない。才華先生と何らかの関係があるのは確かだ。その名前を聞いた彼女の顔色の変わり様。
そう。まるでその存在に、怯えているような。
「何でもねぇ」
「…?」
芹は納得しきっていないようであったが、話はそこで終わった。才華先生に交際相手がいることが分かったのは1つの成果だ。直接聞いても子供相手にそれを話す可能性は低いだろうし。
純はまだ自分が5年前の体の大きさまで縮小してしまっていることに慣れなかった。何もかもが巨大で、そして自分よりも高い。5年後には母の身長を超えているというのに、今は彼女よりも低く、それゆえか自分より身長が高い母が5年後よりも更に頼もしく見える。
「ごちそうさま」
純はシチューを食べ終え、器を台所まで持っていった。シンクにそれらを置き、振り返る。
なぜか芹がこちらを凝視していた。
「な、何?…」
思わず訊くと同時に、また何かやってしまったのかと思った。
「いや…純が自分からお皿を片付けたことなんてなかったから」
「今日のお兄ちゃん、ホントにお兄ちゃん?」
…そうだっけ?と純は小さくつぶやいた。
舞も目を丸くしている。芹は立ち上がり、純に近づいた。
「…なんだ?」
彼の前で立ち止まり、しゃがんだ。芹の顔は嬉しそうで、少し涙が滲んでいる。
「偉い!」
そして純を抱きしめる。
「うわ!いいってそういうの!」
実の親にハグをされるのは何年ぶりだろう。こっちの時間の自分はそうでもないのだろうが、中身の俺は高校2年生。恥ずかしさとこそばゆさから、純は芹の腕の中をもがいた。
「これからもその調子で頼むよ!」
笑顔で芹はそう言った。母がこんなに心の底から喜んでいるのを見るのは、俺は何年ぶりだろうか。父が亡くなる前はこんなに明るく振る舞っていたのかと、純は改めて父が母にとってどれだけ大切な存在であったのかを思い知った。
そして、そんな母の笑顔に対して彼は嬉しく思うことが出来なかった。代わりに後ろめたい気持ちが心に広がっていく。
「…分かったよ」
純はそう返し、芹の中から逃れた。彼女はまだニコニコ笑っている。
胸がズキンと痛む。それが表情に出る前に彼は振り返り、自室へ戻っていった。
22時過ぎ。
純は風呂を済ませ、自室のベッドに横たわっていた。両手を頭の後ろで組み、天井を眺める。
ドッと疲れが押し寄せてきた。もう何十時間も寝ていない気分だ。
俺はこの世界で才華先生を死なせない。自分のせいで死なせてしまった大切な人を救うことで、長年抱えてきた後悔を捨て去る。
それと同時に、純の中である思いが芽生えていた。
「無事助けられたら、告白しちゃおうかな…」
元々俺は、彼女のことが好きだったのだ。助けてそれで終わりなんて、また後悔してしまいそうだ。
付き合えるとは思っていない。才華先生にとって俺は12歳のケツがまだ青い教え子だ。でもここで告白しておくことで、未来が変わる可能性がある。将来もしかしたら、交際している可能性もゼロではない。
純は想像をしながら自分の顔の口角が上がりきっていることに気づいた。両手で両頬を2度叩き、気を引き締める。
明日から調査を行う。それも才華先生に悟られないように。となると、協力してくれる人が必要だ。
「まずはハチスガ…さんのことを調べないとな」
それに関しては葵が詳しいだろう。彼女は昔から噂話が好きだったり、妙に情報通なところがあったから。
ハチスガの名を聞いた才華先生の顔が、頭から離れないでいた。あんなに青ざめた顔を見るのは初めてだ。生徒の前で隠せないくらい動揺を露わにしていた。
いろんなことを考えているうちに、疲れが強烈な眠気に変わっていった。瞼が重くなり、純は耐えきれず目を閉じる。
今日はもう寝よう。限界だ。そう思い布団を被ると、そのまま深い眠りについた。