第11話:片道切符
「…」
純は5年前のあの日のことを思い出しながら家路についていた。一生消えない後悔。脳裏にこびりついて取れない彼女の亡骸。
「絶対…助けますから」
右ポケットの中の水晶玉を握りしめ、彼は呟いた。
5年前の今、当時純はアパートには住んでいなかった。父、母、妹、純の4人で一戸建ての家に住んでいたのだ。帰り道、それに気づいてアパートから引き返した。
この頃父はまだ転職をする前の、別の会社に勤めていた。俺は詳しくは知らないが、所謂大手の企業の役職持ちであったようで、それゆえ家計に余裕があり、一戸建ての生活でも何一つ不自由なことなんてなかったようだった。彼がその会社を辞め、下請けの建設会社に転職するまでは。
玄関の両端に設置された照明がオレンジ色に灯っている。純は少し緊張しながらも、ドアを開けた。
「た…ただいま」
1階には風呂場と父親の書斎しかない…はずだ。廊下を突き当たった彼の部屋の灯りがついていないところを見るに、まだ帰宅していないらしい。
玄関のドアが閉まった音で、2階から誰かが顔を出した。
「おかえり、純。ちょっと遅かったじゃない」
「母…さん」
母の芹だった。心なしか顔色が明るい。茶色のロングヘアを揺らしながら、階段を下りてくる。
「明くんと遊んできたの?」
「…うん。公園でね」
本当は居残りで日誌を書いていたんだけど。しかしそれを正直に言うと面倒なことになりそうだと判断した純は、嘘をついた。
「手を洗ってきなさい」
芹はそれだけ伝えると、階段の途中で歩を止め2階に引き返していった。
「…分かった」
純はそう言われたが、この家とこれから住む家の間取りが違うということで、どこに何があるか少しばかり忘れてしまっていた。
記憶を辿って、風呂場の前にあることを思い出した純は、手洗いうがいを済ませた。
2階への階段を登る。木の軋む音が少し聞こえた。木造建築の家ということもあり、この季節になると寒い風がちょっとの隙間から中に入り込んでくる。純は昔、それが嫌いだった。
リビングに入ると、妹の舞がテレビを見ていた。5年前だから、彼女は今10歳-つまり小学3年生か。
「お兄ちゃん、おかえり」
「おう、ただいま」
可愛らしい笑顔を浮かべ、舞は純に手を振った。彼もそれに応える。
「えっと…父さんはまだ帰ってこないの?」
自分で訊いておきながら、心臓が跳ねるのを感じた。今はいないということは、これから帰ってくるということだ。生前の父に会うのは、実に3年ぶりとなる。
すると、芹と舞は互いに顔を見合わせ、目を丸くした。そして純に不審そうな目を向け、芹が口を開く。
「まだっていうか…父さんは出張でしょ。年末まで帰ってこないわよ」
「え」
またやってしまった、と純は頭を抱えた。全身から嫌な汗が滲み出てくる。過去のことを覚えていない状態で、「今」の状況を探るという行為は、あまりよろしくないな。…精神的に。
知りたい場合は、あくまで遠回りをすることが重要だと純は改めて考えた。
「あ、そ…そうだっけ?ちょっと忘れてたわ」
後頭部を右手で掻き、笑って誤魔化す。舞はそんな純の様子に笑みを浮かべていた。
「じゃあ…夕飯できたら呼んでくれ!」
純は逃げるようにリビングを出て、3階への階段へ向かった。芹の慌てた声が背中にかかる。
「あっちょっと!もうあと30分くらいでできるからね!」
「分かった!」
階段を登りながら、振り返らずに返事をした。
3階に自室があることを覚えていたため、純はここに帰って来た。
中に入り、部屋の内装や雰囲気を見る。学校でもらったプリント類が床に散乱しており、洋服も何着か投げ捨てられている。
「な…つかしい」
最初に抱いた感想は、ただひたすらに懐かしいということ。
ベッドの上にはポータブルCDプレイヤーとイヤホンが無造作に放ってあり、漫画本が枕の横に置いてある。床に設置された加湿器は水が入っておらず、カルキ汚れも目立っていた。充分な手入れがされていないようだ。
それも覚えている。子供の頃は掃除が大嫌いだったため、母に任せきりだった。
「やれやれ…」
少し片付けよう。純はランドセルを部屋の端に置き、掃除を開始した。
10分ほど経ったところ。
純はベッドの下に雑に置かれた漫画の整理をしようとしていた。屈んで1冊1冊の漫画を取っていく。中には埃をかぶっているものまであった。
屈んでは取り、屈んでは取る。その動作で、純が履いていたズボンの右ポケットから、例の水晶玉が転げ落ちてしまった。
床と衝突し、鈍い音を出した後、ひとりでに転がっていく。
「あっやば」
その先にはまだ片付けきれていない課題のプリントがまとまって置いてある。純の自筆で日付、クラス、名前が書かれていたのが見えた。
彼が転がる水晶玉を止めようと飛び出したが、間に合わなかった。日付の書いてある部分まで到達すると、真っ白な光を放つ…ことはなかった。
「…」
何事もなくそこを通過した後、ゆっくりと静止する。目の前が真っ白になったり、眩暈や耳鳴りに襲われるということはない。その他、時間を跳躍する際に起こった違和感なども特に感じられなかった。
不発した、ということだろうか。純は水晶玉を右手で拾い、眺めてみた。淡く紫色に光っているだけで、異常な動きは見られない。
水晶玉が転がっていったプリントにある日付は『9月25日』。西暦の記載がないが…それが原因だろうか。
「試してみるか」
机の上に置いてあったシャープペンシルを手に取り、日付の横に西暦を書き足す。その年はいつでも良かったが、万が一のことも考慮して今と同じ2006年を指定することにした。
今までタイムリープしてきたその『引き金』は、メールの受信日時や作文に付けられたタグなど、ペンで書かれたものでない日付であった。自分で書いた日付にも跳ぶことができるなら、かなり融通が効くが、果たしてどうか。
純は水晶玉をプリントに押し当てた。
視界が真っ白になる…ということはやはりなく、紙の擦れる音が響くだけ。何も起こらない。水晶玉自身も紫色に光っているだけだ。
確証は得られないが、暫定的には自筆ではタイムリープが不可能ということが答えとして導けた。
ということは…あれ?
「ヤベェ…俺…どうやって元の時間に帰るんだ?」
過去を変える、その一心でタイムリープして来てしまったせいで、そのことを頭に置いていなかった。自分で書いた日付に跳べないとなると、2011年に戻る手段がない。
数秒後、純はハッと思い立ち、シャープペンシルと白紙を持って部屋を出た。
2階のリビングに着く。夕飯の支度をしている芹がこちらを振り返った。
「どうしたの」
「母さん」
純は白紙とシャープペンシルを彼女に突き出した。
「これに、こう書いてくれ。『2011年9月26日19時』と」
日付は、この日までタイムリープをしたあの時だ。
彼の想像通り、芹は訝しげな表情になった。
「はぁ?何急に」
「いいから」
彼からシャープペンシルを半ば強引に押しつけられた芹は、納得のいかないといった様子のまま、純の言う通りに従った。
白紙に『2011年9月26日19時』と書かれたのを確認した彼は、それをひったくってリビングを飛び出した。
「あっ!純!」
彼を呼ぶ声は耳に入らなかった。一目散に階段を駆け上がっていく。芹はため息をついてシャープペンシルをテーブルに置き、台所に戻っていった。
再び自室に戻ってきた純は、机の引き出しにしまっておいた水晶玉を取り出した。
「自筆がダメなら、他の誰かが書いた日付だ…」
これでタイムリープに失敗したら、と考えると心臓が大きく跳ねた。未来に戻れなくなるとなると、大問題だ。
純は恐る恐る水晶玉を、紙に近づけていく。それを持つ手が汗ばんで落としそうになった。
そして水晶玉は、『2011年9月26日19時』と書かれた紙と接触した。
しかし、何も起こらなかった。
やはりタイムリープをする時特有の異常な現象は1つも現れない。水晶玉にも変化はない。
純はその後何度も水晶玉と紙をくっつけたり、それを紙で包んでみたりした。しかし何度やっても、タイムリープが始まる予兆はなかった。
彼は紙を持つ手に力が入らなくなってしまい、クシャクシャになったそれを床に落とした。
「やばい…戻れない」
元々この水晶玉は、過去にタイムリープすることしかできないのだろうか。純は急に、タイムリープする前の、2011年の明や葵に会いたくなった。そして学校の帰り道に、明に言われたことを思い出す。
『最近のジュンを見てると、心配になるよ。なんか、僕の手の届かないところに行っちまうような気がする』
「ごめん、スイ。お前の手の届かないところに来ちゃったかもしれない」
…ただ今は帰ることよりも、やらなければならないことを第一優先とするんだ。生半可な気持ちでここまで来たわけではない。一世一代の冒険になるかもしれないのだ。未来に帰れないくらい、なんてことない。それに元の時間に戻る手段が完全にないとは限らないし、これから何か分かっていくかも知れない。
純は心の中で何度も言い聞かせ、自身を落ち着かせる。あの時心配そうに自分を見ていた明の顔が頭から離れなかった。