プロローグ:遠い日の記憶
『先生!先生!』
それは、遥か昔の遠い記憶。その日は大雨だった。
『純…くん』
血に塗れた女性が、道路に倒れている。
オレはしゃがみ込み、彼女の顔を見た。口からも血が溢れ、ヒューヒューと苦しそうな息をしている。涙が止まらず、視界が歪んで先生の顔がぼやけてしまう。
だめだ…もう助からない。
あの頃、子供ながらにして俺は、生命の終わりを直に感じ取ることができていた。
彼女を撥ねたトラックは道路に轍を残し、ガードレールに突っ込み停車している。
『ごめん…ね。卒業まで…見て…あげられなくて』
涙を流すばかりで、言葉が出てこない。
『…悔しい…なぁ…』
最後に力なく笑い、ぐったりと脱力した。それから彼女は、動かなくなった。
『先生…?どうしたのねぇ?先生?』
体を揺らしても、彼女はもう反応しない。その目が開いて、オレを見てくれることは二度とないと頭の中では分かっていた。
それでも、受け入れたくなかった。
『ねぇ才華先生!…』
俺はただ、先生と一緒にいたかっただけだ。
放課後、先生を誘わなければ、彼女が死ぬことはなかった。
先生は、俺が殺したんだ。
『なぁ、昨日は舞の誕生日だったんだよ。覚えてた?』
それは、また別の記憶。
『覚えてたさ…』
『舞は、自分の誕生日を祝ってほしくて、今日に日付が変わるまで起きてたんだよ』
昨日-妹の誕生日に、父は帰ってこなかった。
『父さんってさ…仕事のことばかりで俺達のこと全然構ってくれなかったよな』
薄暗い灯りが照らす部屋で、俺はくたびれた背中に言葉を投げる。
『ごめんな…来週の日曜日は時間取れそうだから、舞も連れて一緒に映画でも観に行こう?』
申し訳なさそうに、俺を見る。こうして何度謝られただろう。
『ごめんごめんっつって、結局いっつも仕事じゃねぇかよ。もううんざりなんだよ』
そうだ。父は昔から仕事で家に帰らないことが多く、ゆえに接する時間もほとんどなかった。そんな彼を俺は嫌いだった。大嫌いだった。
約束事をしても、大抵父は当日に仕事に呼ばれ、帰ってこない。
俺がまだ子供の頃は別の仕事をしていたようだが、訳あって転職をしたらしい。母も「それから今みたいな状態になってしまった」と言っていた。
『なぁ純…本当に来週の日曜日は休みなんだよ。たまには父さんと出かけないか?お前と話したいこともあるんだ』
『俺は話すことなんかねぇよ。もう散々裏切られてきたからな。…二度と誘ってくるな』
そう吐き捨て、部屋を出た。
それが父との最後の会話になった。彼は次の月曜日に勤務先で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
父の仕事はとても過酷で、休みもあまりなく、亡くなる数週間前から「疲れがとれない」と母に相談していたようだった。
日曜日は父は本当に一日中休みで、家族のために何度も仕事先に交渉した上でやっとの思いで取ることができた休暇であったと後で知った。
俺は本当に後悔した。父は辛い思いをしながら、家族を養っていくために一生懸命働いていたのだ。それを俺は、ひどい言葉を投げて非難し、彼を追い詰めた。恩を仇で返すように。
父は俺と何を話したかったのだろう。あまりにも2人でいる時間がなさすぎて、想像することができない。ただ一つ言えることとしては、あの日曜日に帰り、父と話がしたい。
俺は本当は、父と遊びたかった。2人で笑って話したかった。
俺がもし父の苦悩に気づいてあげられれば、死ぬことはなかったのかもしれない。
ただでさえ疲れていた父の精神を、俺は追い込んだ。かけるべき言葉を間違えたばかりに、彼と話すことは二度と叶わなかった。
父を殺したのは、俺なんだ-
「人生をやり直せたら」
今まで生きてきて、何度そう思ったことだろう。
人生に後悔はつきものだし、それがあるからこその人生だ。
分かってはいる。だが過去を変えることで、もしも今の人生をより良いものとできるなら。
例えそれが険しい道のりであっても、俺は冒険したい。