40 平穏な世界
夏休みも夏季休館も終わり、橋本真珠の生活は以前と同じ平穏なものに戻っていた。
【平穏】と言っても世界では戦争やテロが起きている所があり、隕石の落下で窓ガラスが吹き飛び、地震や干魃、竜巻や洪水で逃げ惑う人々が居る世界だ。
都内でも、病気や事故での死者は発生し、強盗や殺人、詐欺に誘拐などが毎日の様に報道されている。
だが多くの日本人は、それを他所の世界の事のごとく感じ、危機感を持たないでいた。
更には、現実に起きている事件や災害の全てが報道されたり、目にできるわけではない。
【平穏】と言うものが、現実には狭い範囲で起きている奇跡に近いものだと言うのに。
ハワイから帰宅した真珠は、以前と変わりない町並みと部屋を確認し、大きく背伸びをした。
「帰ってきたわねぇ」
犬と散歩する子供、挨拶を交わす老人、変な姿や行動をする者もなく、財布を落とせば現金が残ったまま帰ってくる治安。
ここは、田舎の農村に負けず劣らずの住みやすい街だ。
そして、田舎に比べて親戚などが居ない為に、煩わしい人間関係なども無い。
求める時に、求める人と一時的な関係が築ける。
「あらっ!叔父様からのメール?」
内容は、夏休みくらいは帰ってこいというものだった。
楽しかったハワイ旅行の記憶が、一気に暗い記憶に押しやられる思いがした。
『駿河の血を嫌って昴兄さんを捨て、挨拶に来たのも追い払った橋本家の皆様が、同じ血を持つ私に会いたいとは思えませんが?』
この内容は、昴から聞いた物だ。
夫婦は別れれば他人だが、親子の縁は切れるものではない。
母や祖父達はソレを切ったのだ。
離婚後に産まれた真珠の養育には、思うところが有ったのは考えられる事だ。
ネガティブに考えるならば今回の離別は、橋本家にとって厄介払いである筈なのだから。
家族の関係を求めるならば、真珠には実の父兄と義理の姉も居る。
ただ、その関係を深めるには問題もあるが。
当然だが、彼女がコノ平穏な世界の舞台裏で動いている者の行動を知るよしもない。
橋本真珠が見ているのは、彼女の為に行われている行為の、わずかな一面でしかないのだから。
彼女が知らず、報道もされていないが、この街に来て姿を消した半グレや犯罪者の数は一年間で数十人近い。
それを知り、調べようとした者も数多く【行方不明】となっていた。
「若頭、おかえりなさい。今日も、真珠御嬢さんの周りで【騒ぎ】は起きていません」
『ご苦労様だったな。引き続き【処理】してくれ』
今日もプレアデスの一人が、昴に定時連絡を入れている。
旅行の間に真珠のアパート周辺を担当していた者だ。
「やれやれ、やっと交代できるな。だが、真珠御嬢さんの平穏が牙釖組の平穏に繋がると思えば安いものか。御嬢に何かあったら組長も若頭も、後先考えずに暴れるだろうからな」
弥彦と昴が暴れだしたら、誰も止められないだろう。
昴が表沙汰を嫌い謀略を巡らしているのも、真珠の私生活に被害が及ばない様にだ。
その為に、都内の抗争の種は早めに武力で摘み取って来た。
外部からは牙釖組の勢力拡大にしか見えないが、その実態は真珠の為に都内での暴力沙汰を減らす事にあったのだ。
敵対勢力の減少は、盃を交わした紅蓮会にもメリットがある。
牙釖の武装に多額の出費を負っても、回収できる目処がつくのだから。
ともあれ、昴達との家族旅行は、無事に終ったのである。
山本純一郎は、農村の借家に帰ってきた。
真珠のガードとしてハワイに出掛けた彼を出迎えたのは、一人息子の剛だ。
「御勤め、お疲れ様でした」
「おいおい、出所じゃないんだぞ。とは言え『ただいま』だな。こっちは変わりはないか?」
「はい。田舎は平穏なものです。東京では、いろいろ有った様ですが」
以前に通わせていた高校は、不良やヤクザの子息など、問題のある生徒が集まる所だった。
牙釖組の子供とつるんでいたが表立った事をさせないようにしていたので、田舎の高校にも転校できた様なのだ。
「可哀想だが、土産はないぞ」
「御勤めなんですから、気を使わないでください。それに本家預かりも楽しかったですから」
彼の妻は十年前に病気で死んだ事になっている。
だが、実際には他の組による薬物中毒死だ。
純一郎の渡航中に息子の剛を一人日本に残す事になるのは、病気や事故と色々心配だし、夏休み期間中なので牙釖本家に預かってもらっていた。
『東京では、いろいろ有った』と言うのは、三笠警部が不在の間の勢力拡大の事だろう。
今日は、父親の帰国に合わせて借家に戻っていた。
真珠が東京入りしたのに、山本が彼女の故郷に残っているのは、息子を高校ぐらいはマトモに卒業させてやりたいという親心だった。
二十年近く前になるが山本は元々、牙釖組傘下の組に居た下っ端だった。
他の組との抗争と、それを取り押さえようとした警官隊の撃ち合いの結果、唯一生き残った組員だ。
殺人を犯す前に重傷を負ったので数年で出所したが、身の置き所がなく一般の仕事をしていたが、妻の死を切っ掛けに牙釖組の客人扱いとなり、年月が経っていた。
「今回、やっと牙釖組の盃をもらった俺だが、剛は自由にしていいんだぞ」
「いや、俺も高校を卒業したら牙釖組に入るよ。今の牙釖組は刺青無しも必要みたいだし、そこいらのヤクザとは違って面白そうだ」
息子の将来に、純一郎は顔をしかめる。
「銃撃戦だけが極道の生き方じゃあないぞ」
「分かってるさ。教習所に通って免許を取って、親父みたいな【工作員】になりたいんだよ」
タクシーなど【人を乗せて運び、運賃をもらう】旅客運送の為に必要な【普通二種免許】を手に入れるには、 普通自動車免許を取得してから通算3年以上の運転経験で21歳以上である事が必要だ。
タクシー運転手を見て育った剛ならば、有り得る選択の一つだと言える。
「まぁ、タクシー運転手なら一般人としてもやっていけるからな」
父親の承諾を得た剛は早速、最寄り教習所のパンフレットを出してきた。
「手回しが良いな?」
「もうすぐ誕生日だからね」
9月生まれの剛は、もうすぐ18歳となる。
「誕生日プレゼントは車を希望か?」
「中古の軽でいいんだけど」
牙釖組に入りたがるのは別として、息子が自分の背中を見て育った事に、笑みを浮かべてしまう。
「剛は料理も出来るから料理人もアリだと思うが・・・」
「俺が卒業したら東京に帰るんだろ?二種免許が取れるまでの3年の間に、組で研修を受けながら近くの飲食店で働いて、調理師免許も取るつもりだよ。個人タクシーやりながら、ホテルとかの厨房応援もできれば、潜入工作なんかもできるし」
「お前、そんな事を考えて居るのか?」
牙釖組と言うより紅蓮会関係の仕事は、ここ数年で様変わりしている。
剛は本家で、その一端を見て将来設計をしていたのだろう。
「お前は、本当に俺の子か?トンビが鷹を産んだのか?」
「あくまで希望たけどな」
一応は平穏を装おう親子関係に変化が見られるのは、この後の事となる。




