★番外編②★
「へ、ヘンリック様!」
焦った様子の執事に、私は眉を寄せる。
焦る執事など、滅多に見ないからだ。
だが、思い出す。
大体、執事がそんな顔をしてやって来るのは、形ばかりの妻の話をするときだけだったことを。
私はため息をついて首を横にふった。
「あの女の話など、耳に入れなくとも良い」
「違うのですヘンリック様! そんなことではないのです!」
執事の否定の言葉に、私は首をかしげた。
「じゃあ、何だと言うのだ」
「宝石商が、銀行でお金を払って貰えなかったと!」
「……どういう意味だ?」
全く意味が理解できなくて、私は眉を寄せた。
膨大なお金を預けている銀行が、なぜ私の小切手を持った宝石商にお金を渡さない?
家の金庫ではなく、市井の銀行などと怪しい組織にお金を預けているから、こんなことになるんだ!
私は心の中で、この事態を招く遺言を残した祖父を罵る。
「そ、それが……銀行の者の言い分では……この家の財産はもうないと!」
執事の言葉に、私は意味がわからなくて首をふる。
「何を言っている? 冗談も休み休み言え」
あの莫大な財産が、なくなるわけがない。
この国の国家予算に等しい金額が預けられていたんだぞ。
だが、執事は青白い真剣な表情で、私を見上げる。
「ヘンリック様、それが……どうやら本当のことのようなのです」
「なぜ?! いや、銀行のものを呼び出せ! すぐにだ!」
私の言葉に、執事は首をふる。
「呼び出しましたが、来てはくれませんでした。……用事があるのならば銀行に来ていただきたいとのことです……」
「は? ……あのものたちは、私が呼ばずとも、この屋敷に入り浸っていたではないか! なぜ、急に来れないのだ!」
銀行の人間は、何かがあると、私にいい投資の話があると持ち掛けてきた。
当然、私はそれを全て突っぱねていたがな。
投資などせずとも、我が家は安泰……なはずなのだ。
「……お金があれば伺いもするが、お金もない人間の相手をするほど暇ではないのだと……」
「何を!」
激昂する私に、執事が震えあがる。
「ヘンリック様! 私が言ったのではありません! 銀行のものが言ったのです!」
私は奥歯をぎりぎりと噛みしめる。
一体、何だって言うんだ!
ヨハンナが欲しがるものは何でも買ってやった。
でも、あの財産がなくなるようなものは、何もなかったはずだ。
じゃあ、どうして、我が家の金がなくなっているのだ!
「……銀行に行くぞ!」
私は屈辱的な気分で、歩き出す。
*
「タッペル公爵様、いかがされましたか?」
いつもなら、銀行の店長にしか会わないのに、今日私の対応をしているのは、どう見ても下っ端の店員だった。
「なぜ、店長が来ない?」
「……申し訳ありません。店長は、会議中でして」
私は奥歯を噛みしめる。いつも私の家に寄っていたのは、店長と、次にえらい人間だった。
あいつらが、どうして私を優先しないのだ!
「私よりその会議が大切だというのか?」
店員は困ったように首をかしげる。その態度にもイライラする。
「店長に、どのようなご用件でしょうか?」
「我が家が預けていた金をどこにやったのか尋ねに来たんだ!」
いらだって告げると、店員が困ったように首を振った。
「公爵家で使ってしまわれただけですが」
「そんなわけがない! 私はそんな金の使い方などしない!」
「ですが、事実です」
「て、店長を呼べ! 今すぐだ!」
「申し訳ありません。店長は会議中ですので、終わるまでお待ちいただけますでしょうか」
軽く頭を下げる店員に、私は握った拳が震えるのを止めることができなかった。
「私はタッペル公爵だぞ!」
「ですが、私共の理念は、お客様は平等でございます。貴族であることや平民であることに対して、態度を変えるようなことはございません。前タッペル公爵様は、それをご理解の上、我が銀行をお選びになったのです」
「わ、私は、そんなものに同意していない!」
「……そもそも、この銀行にはタッペル公爵様よりお預かりしたお金はございませんので、お客様とは言えないようにも思いますが」
「私は預けていないからな!」
私の強い声に、店員はゆっくりと首を振った。
「この銀行には、タッペル公爵様が関係するお金は、全くない、という意味です」
「一体誰が使ったんだ!」
「タッペル公爵家の人間に間違いはないでしょう」
「そんなわけがあるか! 誰かが盗んだんだろう!」
「いいえ。きちんとエヴァ=タッペル公爵夫人のサインがある小切手を現金化していただけにございます」
「エ……ヴァ……?」
私ははた、と止まる。
店員が大きく頷く。
「はい。エヴァ様のサインがございました。問題がありましたでしょうか?」
エヴァ。
すっかり忘れていたが、確かに書類上の妻の名前がそうだった気がする。
だが。どうして!
私は店長に会うことも忘れ、店を飛び出した。
***
「エヴァ!」
別宅のドアを開けると、私はそこにいた女に向かって叫ぶ。
「はい。何?」
だが、私の怒鳴り声に眉を寄せただけで、その女はふてぶてしく肩をすくめた。
「お、お前と言うやつは、しらばっくれるつもりか!?」
「私が一体何の悪いことしたって言うのさ?」
女が首を傾げる。
その態度が信じられなくて、私は目を見開いた。
「何をしたか、自分でわかっていないのか!?」
女は小さく首を振った。
「全然わかんない」
「我が家の金を使い尽くして、何がわからないだ!」
「へー。使い尽くしちゃったんだ? 案外、大したことない資産だったね」
「何を言っているのかわかってるのか!? お前は、我がタッペル公爵家の莫大な資金を使い果たしたんだぞ!」
怒り狂う私に、女は首をかしげた。
「それで?」
私の体が怒りで震える。
「それで、だと?! お前には事の重大さが理解できないのか!?」
「えーっと。それの何が悪いのか、私にはわかんないんだけど?」
「お金を使い尽くしておいて、何が悪いかわからないなどと!」
この女、そう言えば庶子だったな。失敗した。お金の価値がわかる人間を選ぶべきだった!
「だって、好きなだけお金使っていいって、言ったの自分でしょ」
女の返事に、私は眉を寄せた。
「そんなこと言った覚えはない!」
だれが、この女に財産全部使っていいと言うものか!
「王様の次に偉い人の癖に、そんな嘘よくつけるね。貴族の風上には立てないんじゃないの?」
「うるさい! うるさい! うるさい! 早く買ったものを商人に返せ! 金を取り戻してこい!」
それはすべてヨハンナと子供が得るべきものだ!
「えー。無理」
私の怒りをおちょくるような口調に、更に怒りが湧く。
「どこにある! 宝石ばかり買い集めたのだろう!」
「そんなもの買ってないよ。信じないなら探せば?」
女の言葉に、私は女の腕をつかむと無理矢理離れの部屋に入っていく。
「離して!」
「離すか! こっちにこい!」
「こ、公爵様、どうされたのですか!」
私の剣幕に、使用人たちが驚いている。
「こいつが買い集めた宝石や貴重品はどこにある!?」
私の言葉に、使用人たちが困惑した表情になる。
「あの、そんなものは、この家のなかには一つもありません」
おずおずと告げる使用人に、私は女の顔を睨み付ける。
「どこに隠している!?」
「隠してないけど?」
「まだ嘘をつくのか!」
バタン、と音がして、ドタドタと足音が聞こえてくる。
一体誰だ!
「タッペル公爵様! む、娘が、粗相をしてしまったそうで……」
現れたのは、ピョルリング伯爵だった。……なるほど、執事が呼びに行ったらしい。流石にできる執事は違うな。
そうだ。いいことを考えたぞ。
「粗相、なんてかわいいものではない! 我が家の全財産を使い果たしたのだ! そうだ。ピョルリング伯爵に、全て補償してもらおうか」
私の言葉に、伯爵が顔を青くする。
「おい! 何てことをするんだ! 一体何に金を使ったんだ!」
伯爵が女に怒鳴りつける。
「いいって言われたから、好きなように使っただけだけど?」
好きなようにだと!? そのお金は、全部、ヨハンナと子供たちに使うべきものだ!
「ピョルリング伯爵、この女が使ったお金を回収してくるんだ! いいな!」
「それは無理じゃないかな。お金は回収できないと思うよ」
女の声ではない、聞き覚えのある声にぎょっとする。
「「は?」」
私は入り口に視線を向ける。
そこには、良く知った……馬鹿殿下が立っていた。
「エド」
女が親し気に馬鹿殿下の名前を呼ぶ。
……知り合い、なのか?
「「殿下!」」
伯爵が更にかしこまった。私は信じられないような目で女を見つめる。
「タッペル公爵夫人は、非常に慈善事業に熱心でね。貧しい者たちの生活のためにお金を惜しまなかったんだよ。私も協力していたんだけどね」
慈善事業? なんだ、それは。金にも何にもならないではないか!
「私はしたいことをしただけで、慈善事業をしたつもりはない」
ぶっきらぼうな女の言葉に、伯爵が焦った顔になる。
「エヴァ! エドヴァルド殿下になんて口をきくんだ!」
「いつもそうだけど? エドには何も言われなかったけど?」
「そうだね。それが面白かったわけだし。それで、ヘンリックたちは、何にそんなに怒っているんだい?」
「殿下は……一体この女がいくらそのくだらないことに費やしたと思っているんですか!」
馬鹿殿下でも、殿下は殿下だ。私はトーンを落として、でも怒りを含んだ顔で馬鹿殿下に告げた。
馬鹿殿下がうーんと、顎に手を当てる。
「くだらなくはないと思うけど……国家の予算と同じような莫大な金額だったのは、確かだね」
「殿下! それだけの金額を使おうとするのに、どうしてこの女を止めて下さらなかったのです!」
私の追及に、馬鹿殿下が首を傾げた。
「だって、ヘンリックは、好きなだけお金を使っていいと言ったんだろう?」
「そ、それは、この女が勝手に言っているだけで!」
そんな約束、守るわけがない!
「……だが、庶民の多くからは、感謝されることをしたと思うよ? 金よりも名誉を取ったのだと、庶民たちはほめそやしてくれると思うけど。それに、元のお金を使うばかりじゃなく、それを元手に増やす努力をしてなかったのかな?」
増やす?! 何を言っているんだ、この馬鹿殿下は!
「ふ、増やす必要がないほどの莫大な金額だったのです! 名誉など、あの莫大な金に代わるものではありません! そんな名誉など、いりません! そもそも、私は自由にお金を使っていいなどと言うそんな約束はしていない! り、離縁だ! こんな女とは離縁してやる!」
「金を自由に使っていいと言ったっていうのを認めてくれるなら、すぐにでも離縁するけど」
女の言葉に、私は顔を真っ赤にする。
ぐぬぬ。この女!
馬鹿殿下がいなければ、目にもの見せてやるのに!
「子供がもうすぐ生まれるんでしょ? でも、あの人の立場は愛人でしかないから、かわいそうに、子供も庶子としてしか扱われないんだろうね? 私みたいに」
ヨハンナのことを考えて、心が決まる。こんな女に時間を割くのも無駄だ!
「お前のような屑とは、すぐに離縁してやる! 私の能力でお金など、いくらでも作り出せるわ! 早くここから出ていけ!」
「我が家とも無関係だ! いいな!」
なぜか女ははニヤリと笑う。
なぜ、こんな時に笑えるんだ! お前は、追放されたんだぞ!
「わかった」
女は頷くと、家を後にした。
***
私は苦々しい気持ちで、ヨハンナの元に走る。
こんな知らせ、身重のヨハンナに知らせたくなどない。
……でも、言わないわけにはいかないだろう。
「え? ヘンリック様、もう一度おっしゃって?」
案の定、純粋な瞳のヨハンナは、不思議そうに瞬きをした。
私はもう一度告げるべく、口を開く。
「うちの財産が、あの娘に使い尽くされてしまった」
ヨハンナがふ、と笑いだす。
「そんなはずがあるわけないわ」
私だってそう思っていたさ。そう、信じたかったさ。
「ヨハンナ、よく聞くんだ。あの財産は、使い尽くされて戻ってこない。そうエドヴァルド殿下が言っていた。どうやら慈善事業に使ったらしい」
憎々し気に告げる私に、ようやくヨハンナに伝わったらしいとわかる。
ヨハンナが今までのはかなげな表情から、唐突に目を見開いたからだ。
「なん……ですって!」
「え?」
ヨハンナの口調と、般若のような表情に、私はぎょっとする。
……いや、突然お金が無くなったと言われたら、いくら天使のヨハンナでも、そんな表情に……なるのだろう。
「ヘンリック様! この子は、この子はどうなるのです!?」
ほら、そうだ。ヨハンナは、子供の心配をしているのだ。だから、怒っているんだ。
「ヨ、ヨハンナ落ち着け! 一つだけ朗報だ。もうあの財産がなくなったのだから、あの娘との婚姻を続ける理由などなくなった。だから、離縁したのだ。ヨハンナとようやく結婚できるんだ」
私はヨハンナを落ち着けようと、朗報を伝えた。
「この子は、どうなるのです!? 結婚? それが何よ?!」
なのに、ヨハンナは“それが何?!”と答えた?
どういう、ことだ?
ああ、怒りに我を忘れているんだな。
「ヨハンナ? ようやく、結婚できるんだぞ?」
私は落ち着かせるように、ゆっくりと告げた。
「あの莫大なお金が無くなったのに、結婚なんて意味ないわ!」
莫大なお金が無くなったのに、結婚の意味がない?
「え?」
私が呆然となると、ヨハンナがハッとして、そして目を伏せた。
……今のは、きっと聞き間違いだ。
「ヨハンナ? 私との結婚を望んでくれていただろう?」
おずおずと告げる私に、ヨハンナが口元をほころばせかけて、止まる。
「今は考えておりません」
何だと?
今、ヨハンナは何と言った?
次の瞬間、ヨハンナの目に涙が浮かんだ。
「ヘンリック様、元々私は愛人にしかなれぬ身分だったのです。タッペル公爵家の貯えがなくなった今、私とこの子のせいで、タッペル公爵家が更に困ることを望んではおりません。私は市井で何とかやっていきますわ。ですから……支度金を持った貴族の令嬢と再婚されてください。それが、タッペル公爵家を再建するための唯一の手段なのです」
ヨハンナはこぼれる涙をぬぐいながら、いやいやとするように首を横に振る。
……やっぱり、ヨハンナは、天使に違いない。
このタッペル公爵家のことまで考えてくれているのだ。
「ヨハンナ。私のもとから去るなど、許さない。持参金など必要ない。私が、絶対にこの家を再建して見せる。だから、安心してこの家で子供を産み育てるがいい!」
私はきっぱりと告げる。
そうだ、これが私の再建への宣言だ!
「ですが」
ヨハンナが不安そうに反論しようとする。……ヨハンナは、本当に私のことを思ってくれているのだな。私はニコリと笑って首を振る。
「安心して子育てができるよう、人の出入りがあまりない部屋で過ごすといい。私は、ヨハンナとその子がいるだけで、幸せなのだから」
ヨハンナは目を伏せて、そして頷いた。
……これから、私たちの幸せな結婚生活が始まるのだと思うと、感慨深いものがある。
お金より、愛だ。
きっと、祖父は、私にそう言いたかったのだろう?
完