七億円の恋人
「いい加減にしてくれよ」
会社の廊下。人気のない奥まった隅で。
三十一歳の、なんとか一応正社員の田所一馬はスマホ相手に苛立っていた。
会話の相手は田舎の母。もう決着がついたはずの話をいまだに蒸し返してくる。
「だから言っただろ。金については、もう決まったって。高すぎる? そんなことない、相場より安くしてもらったんだ。…………アニキと姉ちゃんが? いい加減にしてくれよ、何度言ったらわかるんだ」
昼の休憩時間があと五分で終了する。
「ああもう、いったん切るぞ。俺、これから仕事だから」
『でも一馬、やっぱりもう一度、考え直して…………』
一馬は、なおも話したそうな母親の声を聞かないふりして通話を切り、スマホをポケットに押し込んだ。少々罪悪感が残ったが今は仕事が優先だ。
小銭を出して自動販売機で缶コーヒーを買うと、同じ課のアラフィフの先輩、大平昌世に見つかった。昌世も自動販売機でペットボトルのお茶を購入する。
「なによ、田所君。家からの電話? 親は大切にしないと駄目よ、田所君はどうも言葉遣いが乱暴だから」
「してますよ。最近は毎週末、実家に顔を出しているほどです」
「あら、そんなに? そういや最近『忙しい』って連呼してるわね。若いのに疲れた顔をして、ずーっと暗いじゃない。悩み事?」
「悩み、というか…………実家の建て直しで。最初は『バリアフリー仕様にリフォーム』って話だったのに、調べてもらったら建物自体が古すぎて地震とかが不安だ、となって。全体を建て直すことになったんです。おかげで見積もりや業者との打ち合わせのたび、呼び出されて」
「そりゃ大変ね。でも田所君は、お兄さんもお姉さんもいるんでしょ?」
「どちらも小さい子供が二、三人いますから、そうそう家を空けられませんよ」
「独り身のつらさね」
笑う昌世と並んで、一馬は廊下を歩いて行く。
あと十数歩で自分達の部署のドア、という所で突然、手前の角から女が現れた。
「いい加減にして!」
先ほどの一馬と似たような台詞を放ったのは、経理の栗原美園だ。目立つタイプではないが「何気に清楚系美人の二十七歳」という評価で、ひそかに男性社員の注目を集めている。
先ほどの一馬同様、スマホ相手に口論していた栗原は足早に廊下を進もうとして、一馬と昌世に衝突しかけた。
「あ、す、すみません」
二人の存在に気づいた栗原は恥ずかしそうにお辞儀して、そそくさと反対方向へ去っていく。
「もう連絡しないで。私は絶対に戻らないから…………」
栗原の棘のある声が遠ざかっていく。
「栗原さん、彼氏と別れたって話、本当みたいね」
昌世が人生の年長者らしい苦笑いを浮かべる。一見、お節介なこのアラフィフ女性は、意外にも他人に話していい事柄とそうでない事柄はきっちりわきまえており、先ほどの栗原の会話も社内に広まることはないだろう。
一馬も他人のプライベートを言いふらす趣味はなく、互いに見なかったふりをして、自分の席に戻った。
その晩。残業で少し遅くなった一馬は、疲れと空腹を抱えて会社の玄関を出た。先日の思いがけない臨時収入で購入した新しいマフラーを巻いて、最寄駅へいそぐ。
すると、横から飛んでくるように声が聞こえた。
「いい加減にして!」
覚えのある女の声。とっさに一馬はせまい横道をのぞき込む。
「別れる、って言ってるじゃない。待ち伏せされても困るの!」
コート姿の若い女と、パーカー姿の男が言い争っている。女には見覚えがあった。
「栗原さん?」
一馬が声をかけると、栗原美園がぎょっとしたようにふりかえり、男も動きをとめる。一馬は横道へ踏み込んだ。
「大丈夫? 栗原さん。警察を呼ぼうか?」
「あ、ええと…………」
「なんだアンタ。美園の新しい男か?」
パーカーの男が一馬をにらみつけてくる。
「違う。けど、これ以上、栗原さんに迷惑かけるなら、警察を呼ぶぞ。栗原さん、嫌がってるじゃないですか」
あえて断定調でしゃべって男を見つめると、男も怯んだようだった。
「美園…………っ」
弱々しい声で栗原を見つめるが、栗原はまったく男を見ない。
男は「くそっ」と吐き捨てて踵を返し、横道の反対側へと去っていく。
「日曜! いつもの店で二時に! もう一度、話そう! 来るまで待ってる!!」
最後にそう叫んで向こう側の通りに消えたが、栗原美園はけしてふり返らなかった。
「…………行ったみたいですね」
一馬が口にした瞬間、ガクン、と栗原の膝が折れる。
「だ、大丈夫ですか?」
栗原美園はアスファルトに膝をつき、セミロングの髪をばさりと垂らして、うなだれた。スーツの肩がふるえている。
「怖かった…………」
しぼり出すような声。
「何されるかと…………怖かった…………ありがとう、本当にありがとう…………」
ビジネス鞄を抱きしめた、今にも泣き出しそうな細い声を聞くと一馬も立ち去りがたく、栗原を一人にしてあの男が戻ってきたら、という考えも浮かんで、彼女を放り出すことをやめた。
「立てますか? とにかく、人のいるところに行きませんか? 駅まで送ります」
一馬にうながされて栗原美園もうなずき、ふるえる膝で立ちあがった。
一馬が最寄駅にたどり着いたのは、それから一時間半後だった。
人通りの多い道に出て一息つくと互いに空腹を思い出し、「さっきのお礼に」と美園に駅前のファミレスに誘われたのだ。「あの程度で」と奢られることは遠慮したものの、一馬も独身の一人暮らし。久しぶりの他人との食事を断る理由はなかった。
あたたかい食事で胃袋が満たされると、ぽつりぽつりと美園が事情を話し出す。
といっても斬新な真実などはなく、一馬や昌世の予想どおり、よくある『別れ話のもつれ』だった。美園は別れたいのに、相手の男が離れてくれないらしい。
「ひんぱんに電話やメールをして来るんです。それでブロックしたら、最近は家に来たり、さっきみたいに会社の前で待ち伏せしたりして…………昼間も、友達のスマホを借りて電話してきたんです」
なんでも元カレは「半年前までは大手に勤めていたが、リストラされて再就職がうまくいかず、ここ三ヶ月ほどは仕事も探さずに毎日ブラブラ」していたらしい。
(そりゃ、別れないだろう)
一馬は思った。実質ニートだ。金づるの女性を手放すはずがない。
「私も、最初は『今だけだから』『急なリストラでつらいんだから』と思って、何も言わないでおいたんです。でも、最近は仕事を探さないばかりか、私がうっかり置き忘れた七万円で風俗に行っていたのがわかって…………田舎の父の治療費だったのに…………っ」
美園が悔しさそうにコーヒーカップをにぎりしめる。
「しかもリストラの原因が、私には人員整理と言っておきながら、実は女性上司との不倫がばれたからだ、って共通の友達から聞いて。本人は『出世のためだ』『本当に好きなのは美園だけだ』って言うけど、そういう問題じゃありません。なのに『お前も俺が出世したほうがいいだろ』『お前のための不倫なんだ』って…………理解できない私のほうが悪い、みたいな言い方だったんです。それで、こっちもキレて。『別れる』って言ったんです」
一馬は黙って話を聞く。話半分としても、別れたほうが正解の男に思える。
「半分は勢いだったけど…………でも、今は別れて良かったと思います。あの人、共通の知り合いに『リストラされた途端、美園に捨てられた』って、私が一方的に悪いように言いふらしているみたいだし。あのまま付き合って結婚していたら、どんな苦労をしていたか」
「俺もそう思う。災難を回避できたと思いますよ」
一馬もコーヒーに口をつけながら同意すると、美園は恥じらいの笑みを浮かべた。今日はじめて見る笑顔だ。が、すぐに我に返ったように恥ずかしそうに視線を落とす。
「すみません、こんな話。田所さんには関係ないのに」
「いや、別に。吐き出してすっきりすることもありますよ。それより、付きまとわれるようになって、どれくらいですか?」
「『別れる』と言ったのが一ヶ月少し前で…………一週間もしないうちから、電話やメールがひどくなって。待ち伏せは、ここ二週間ほどだと思います」
「それなら、もう警察に行ったほうが良くないですか? 警察も今はストーカーに厳しいはずだし。相談した実績があるだけでも違う、って誰かが言ってましたよ」
「そうですね」
意外にも美園はすんなりうなずいた。
「この程度で、と思っていたんですけど…………他の人から見てもそう思えるのなら、やっぱり行くべきですよね。週末にでも行ってきます」
「あ、ちなみに日曜はさっきの…………」
「あ、『いつもの店で二時』ですか? 行きません。行くはずないですよ」
栗原美園はささやかに笑い、そこで夕食はお開きとなった。
共に最寄駅まで歩いて別れ、一馬も自分のアパートにたどり着いて、この件は落着、と思ったのだが。
その晩、栗原美園は重傷を負った。
「大丈夫ですか、栗原さん!?」
「田所さん? どうしてここに…………」
白い壁に薄ピンクのカーテン。病院のベッドに横たわる栗原美園は痛々しかった。左足に大きなギプスをはめて吊っている。
「栗原さんが怪我をしたと聞いて。あ、これ見舞いです」
一馬は花束と菓子の箱を差し出す。
「なにがいいか、わからなかったんで。店員に選んでもらったんですけど」
「気にしなくていいのに。でも、ありがとうございます。とってもきれい」
「あの、栗原さん」
一馬は少し声をひそめた。
「階段から落ちた、って聞いたんですけど。ひょっとして、あの男に…………?」
美園は力なく首をふった。
「わかりません。田所さんとお話したあと、玄関に着いた時に音が聞こえて。反射的に誰かいる、あの人がいる、と思って逃げようとして。…………本当にあの人だったのか、ただの物音か…………それすらわかりません。人影も見なかったし、この足も、とっさに逃げようとして自分ですべって転んでヒビが入ったんです」
左足のギプスを見つめる美園の表情は暗く、精神的な疲れがにじんでいた。
(馬鹿だ、俺は)
一馬は思った。
ファミレスで美園と食事をしながら話を聞いたあと。笑顔で別れた美園のうしろ姿に、一馬は(大丈夫だろう)と確信した。
本人はあんなにしっかりしているし、笑っていたし、週末に警察に行くと言っているし、大事にはなるまい、と。
現実には、美園は居たかどうかもわからぬ男の影に怯えるほど追いつめられ、怪我まで負ってしまったではないか。
「馬鹿だ…………」
「はい?」
一馬の呟きは美園の耳には届かなかった。
「栗原さん、頼みがあるんですけど。怪我が治ったら一度、あの男と会わせてください」
「え?」
「一度、人を殴ってみたかったんです」
「どういうことだよ、これは!」
日曜日。カフェに入って美園の姿を見つけた途端、大股で近づいて来た元カレこと寺島邦夫は、同席する一馬を見るなり声をあげた。
「二人きりで話すはずだろ、なんでコイツがいるんだ!」
「大声を出さないで。他の人もいるのよ」
美園に指摘され、寺島は舌打ちして美園の向かいに座る。
「コイツ、あの時の男だよな? やっぱり付き合ってたのか。まさか、オレと付き合ってる時から、コイツと…………!」
「いい加減にして」
怒りをこらえる低い声で美園は説明する。
「田所さんは、ただの同僚。浮気したのはそっちでしょ。私のお金で風俗にまで行って…………あれがお父さんに送る治療費だって、知ってたはずよね!?」
退院はしたものの、美園の左足はまだ本調子ではない。今日この場に来ただけでも相当な葛藤や怯え、ストレスがあるだろうに、一馬の我が儘を聞いてくれたのだ。
寺島邦夫は弁解する。
「だから、あれはちょっとした気の迷いだって。本当に愛してるのは美園だけだって、何度も言ってるだろ。なんで、既婚の上司や風俗の女に嫉妬するんだよ? 美園は本命、妻になる女なんだから、どんとかまえてりゃいいんだって」
「そういう問題じゃ…………もういい」
美園は会話を打ち切った。「言っても無駄ね」と、その表情とため息が語っている。
「いいですか?」
一馬は手をあげ、寺島がなにか言うのをさえぎった。
「栗原さんはあなたの顔を見たくないそうだし、俺もあなたと長話したくないので、さっさと本題に入ります。栗原さんに、あなたを呼び出すよう頼んだのは俺です。ただし、俺はただの同僚です。それ以上でも、それ以外でもない」
「はあ? そんな見え透いた嘘が通用すると…………」
「これを見てください」
一馬は愛用のビジネス鞄から封筒を取り出し、寺島の前に置いた。
「どうぞ。確認してください」
寺島は不審のまなざしで封筒を手にとり、逆さにふる。
「なんだ? 通帳?」
開いて記入を確認すると、目をむいた。
「宝くじの当選金…………!? 百…………千…………七億…………!?」
寺島の言葉に、美園も「聞き間違いか!?」と寺島を見る。
「名義は俺ですけど、カードも同封しています」
一馬はビジネス鞄からクリアファイルをとり出し、はさんでいた二枚の書類を寺島の前に突き出した。書類の文面はまったく同じ。
「こちらにサインしてください。その七億円を受け取るかわりに、二度と栗原さんにも俺にも近づかない。連絡もとらない。破ったら即、警察にストーカーとして通報するし、違約金として全額返金してもらう。そういう内容です。ちゃんと弁護士に作成してもらったんで、法的にも有効ですよ。サインしたら、カードの暗証番号を教えます。その七億円は、そっくりそちらのものです」
「田所さん、なにを考えているんですか!? これじゃ、田所さんのお金が…………!!」
青ざめた美園の悲鳴のような声に、一馬は説明を追加する。
「宝くじですから。俺自身は一セット三千円、無くなっただけです」
「だからって、こんなことに使う必要なんて…………っ」
「サインをお願いします」
訴える美園を無視して、一馬は『誓約書』と記された紙の上にボールペンを置く。
ごくり、と寺島が唾を飲んだのがわかった。
「この通帳…………本物か? オレを騙そうと、偽造したんじゃないのか?」
「それは、このあとATMにでも行けばわかることです。で? サインするんですか? しないんですか?」
一馬は暗証番号を記したメモを、これ見よがしにひらひらさせる。
「むろん、受けとるのはそちらの自由ですし、俺としては受けとらない選択もありだと思います。だって、七億円を捨ててでも『別れたくない』と言えば、女性としても『そんなに私のことを』って、キュンとするもんじゃないですか? 『君には七億円以上の価値がある』ってことなんだから、栗原さんもあなたの愛を見直すかもしれませんよ?」
「えっ…………」
一馬の台詞に美園がひきつる。
寺島は書類と通帳を見比べたまま、無言。
「どうしますか?」
一馬は身を乗り出した。
「まったく。人を馬鹿にした話よね」
美園が言う。
三人での話し合いから半年。
一馬と美園は沖縄に来ていた。
二人の眼前には、南国の美しい青い海と白い砂浜。時折、猫が歩いていく。
例の話し合いは長引かなかった。
寺島は三分も待たずに用意された書類にそそくさとサインすると、通帳とカードと書類の控えをわしづかみ、暗証番号のメモをひったくるように受けとって「偽造だったら承知しないからな!」と捨て台詞を吐いてカフェを飛び出したのだ。美園には目もくれなかった。
「あのあと、すぐに株や投資に手を出したみたい。金額が金額だから、かなりの儲けが出たらしくて。それで仲間を集めて起業して、港区のパーティーとかに出入りするようになって、そこで知り合った二十一歳のアイドル志望の女の子とやらと結婚して、海外で二千万円の式を挙げたそうだけど。大きなプロジェクトに失敗して、株とかの損失も重なって。あっという間に二億が飛んだそうよ。その前に、贈与税で半分近く税務署にとられていたそうだし」
「起業も税務署も怖いな…………」
冗談でも皮肉でもなく、一馬は呟いた。株だけならまだしも、起業となると負債がふくらむのは一瞬だ。しかも金額は文字どおり『桁違い』なのである。
現実に七億円を渡した身である分、一馬の一言には実感がこもっていた。
「でもまあ、まだ一億三千万円くらいは残っているのか? だったら夫婦二人、老後の資産くらいは充分…………」
美園は首を振った。
「アイドル志望の若い妻に女遊びの証拠を押さえられて、慰謝料と財産の半分をとられて、離婚。その妻も、実はこっそりホストに入れ込んでいて、受けとった七千万円で一緒に逃げたって、あとからわかったみたいね」
「…………まあ、独り身なら六千万円もあれば…………ちゃんと働けば…………」
「てっとり早く損失を補てんしようとして、怪しい株で五千万円を失くしたそうよ。今は、残る一千万円でどうにか挽回できないか、宝くじを買いあさっているみたい。まあ、たしかに一千万円丸ごと費やせば、一等に当選する可能性は低くないとは思うけど…………」
「…………」
一馬は絶句する。お手本のような転落人生ではないか。
自分はつくづく幸運だった。
それにしても。
「ずいぶん詳しいな。共通の友達からでも聞いたのか?」
「一度、本人から電話が来たの」
美園はさらりと告げた。
「あの男の番号はブロックしたままだけど、友達のスマホを無理やり借りて、かけて来たの。最初、本気で誰だかわからなかった。それくらい、声の調子が違っててね」
「あいつ…………! 美園に二度と近づくなって、誓約書にサインさせたのに!」
「別にいいわよ」
美園はあっさり流す。
「いま沖縄、って言ったら、あきらめたみたいだったもの。一応、あの男の近況を知っておきたかったから、話しただけ。万一、一馬や私を追ってくるようなら、あの誓約書を使わなきゃならないでしょ? でも、沖縄への交通費も惜しいみたいだったから、大丈夫よ、きっと」
明るく笑った美園に、一馬も「ひとまず差し迫った危機ではなさそうだ」と判断を下す。
そしてため息と共に首を振った。
「七億円もあったってのに…………人間、失う時はあっという間だな」
さも恐ろしげに一馬が身震いすると、美園がやや不思議そうに、それでいて真剣なまなざしで彼を見あげてきた。
「ねぇ。また訊くけど、本当にあの頃、あの七億円を渡した時、私のことはなんとも思ってなかったの?」
「何度目だよ。本当だって」
「全然? 欠片も好きじゃなかった?」
「全然というか、『経理の人』ってだけだった。好きも嫌いもなかったって」
「だったら、どうして私を助けてくれたの? それも、あんな方法で。七億を手放すより、警察に行けば済むだけのことだったじゃない」
「警察に行って寺島が逆上したら、困るだろ。数千万円じゃ、一生遊べる金額でもない分、言うことを聞くかわからなかったし」
「でも、七億も渡す必要、あった? 一億とかで良かったんじゃない?」
「出所が宝くじだって知られているからな。当選額なんて、ネットですぐわかる。一億なんてすぐに使いきるから、『残っている六億を寄越せ』って来るに決まってる。誓約書があっても、大金がかかっていれば、絶対に来る。それに誓約書が効力を発揮するのは、実際に接触した事実ができたあとだ。つまり最低一回は、俺か美園が寺島と会わなきゃならない。その一回で、とりかえしのつかない結果になるかもしれないだろ? かといって金の出所を隠したら『やばい金なんじゃないか』と警戒されて、受けとらなかったかもしれないしな」
一応、一馬もいろいろ考えてはいたのだ。
「ていうか、何度も説明したじゃん。一度、人を札束で殴ってみたかったんだ、って」
あの七億円を手放して、半年。幾度となく美園にくりかえしてきた説明だった。
「寺島のやつ、美園にはきれい事を言ってたんだろ? 『オレには君しかいない』とか『君さえいればいい』とか。本人も純愛と信じているものを『お前の気持ちは金で動く偽物だったんですぅ~』って、笑ってやりたかったんだよ。それだけ」
「もういいだろ」と、一馬は美園から視線をそらして白い浜辺を歩き出す。
美園はもう何度も聞いた返事を耳にして、笑って一馬のあとを追いかける。するり、と彼の裸の腕に自分の裸の腕をからませ、頭を一馬の肩に置いた。
「一馬って、いつもそうよね。本当は見ず知らずの困っている他人に、ぽんと七億円も出しちゃうくらい、すっごく優しくてお節介でお人好しなくせに、乱暴な口ぶりでどうでもよさそうな態度でごまかすの」
「ごまかしてない。本当に殴りたかった、それだけだ」
「自分のためには一円も使わないで?」
「使った。実家の建て直しとか、保険とかマフラーとか」
実は、一馬が当選したのは七億円だけではなかった。
一馬はくじを連番で購入していた。なので、前後賞の三億円も当選しており、合計十億円を手に入れていた。その三億円は最初から別の口座に預けていたため、寺島には知られなかったのだ。
「それだって、他の人のためじゃない。実家をご両親のためのバリアフリー仕様に建て直すための七千万円を全額出して、五人の甥姪用に積み立ての学資保険を二千万円分ずつ。お義父さんもお義母さんも、お義兄さんもお義姉さんも『そこまで出さなくていい』『自分の結婚資金や老後用にとっておけ』って言ってくれたのに、『いいから』って押しきったんでしょ?」
「一億三千万くらい残ったんだ、充分だろ」
「十億からはだいぶん減ったじゃない」
「しつこいな。文句あるのか、不満なのか?」
「ううん、逆」
美園は一馬の前にまわり込んだ。
「知ってる? あの男が誓約書にサインしたのはね、七億円が欲しかったからだけじゃない。それだけあれば、放っておいても私は戻ってくる、と考えたからよ」
「…………」
「七億円を蹴って私に惚れなおさせるより、それを手に入れて、かつ、私のほうから戻って来させたほうが合理的、と思ったのよ。誓約書では『私に近づかない』という約束だったけど、私から戻るなら違反にならない、そう考えたわけ。馬鹿にした話よね、十億もらってもあの男は無理よ。この判断は間違っていなかったって、あの男自身が証明してくれたわ」
一馬の正面に美園の笑顔がある。美園の瞳はまっすぐに一馬を見あげて、まぶしいほどに輝いている。
「あの男にとって、私は七億の価値のある女じゃなかった。私にとっても、あの男は十億もらっても近寄りたくない男だった。でも、それでいいの。代わりに私は、赤の他人のために七億を捨てられる人に出会えたもの。私にとって、あなたは七億円以上の価値のある男性よ、一馬」
そう言うと、美園は夫の裸の胸に自分の頬を寄せた。
その心から安心しきった幸せな笑みに、一馬もこの半年で自分がどれほど妻に惚れきってしまったか、照れくささと共に実感させられる。
互いに抱擁しあうと、水着姿の新婚夫婦はふたたび腕を組んで白い砂浜を歩き出した。
(まいったな)
一馬は左側に美園の体温を感じながら、彼女の自分に対する予想外の高評価に戸惑いと照れくささを覚える。
美園はそう言うが、一馬とて聖人君子ではない。寺島に七億円を渡したのは、それなりの思惑や計算があってのことだ。
寺島は恋人に養われる生活に慣れて、味をしめた男だ。まして、恋人の父親の大事な治療費と知ってて、金を盗んで風俗に行く男。
(七億なんて渡せば、高確率で身を持ち崩すと思ったさ)
堅実に貯蓄して新しい女性を見つけて、裕福な結婚生活を送るなど、あの男には無理だ。すぐに風俗やキャバクラで散財し、なんなら銀座や赤坂の店に『ランクアップ』するだろう。身につける品も住む所も高額になり、気に入った女達にもガンガン高級品を貢ぐはずだ。
そもそも最初に、贈与税で半額近くを税務署にもっていかれる。
それで働かずにいれば、七億円なんてまたたく間になくなるはずだ。
それこそ、金のかかるキャバ嬢やホステスにハマってくれれば、美園を思い出すこともあるまい。
そう計算していた。
(とはいえ、半年は…………)
さすがにそこまで早いとは予想外だった。
(まあ、いいか。大の男が自分で考えて選択したんだ。他人がどうこう言うことじゃない)
大金を渡したのは一馬だが、寺島にはそれを拒む自由も、手に入れても堅実に使う自由もあったのだ。すべては本人の選択である。
(とにかく、さっさとあの七億を手放せて良かった)
その一言だった。
一馬はあの七億円を手放したかった。
合計、十億円。それを手にした直後は、一馬も有頂天になった。
これで一生、働く必要はない。むしろ毎日遊んで暮らしても大丈夫だ、結婚もできる。家でも車でも、欲しい物はすぐに手に入る。
そう思い込み、実際にその舞い上がった気分のまま、ぽんと実家の建て替え費用と甥姪達の学資保険を出してしまった。
しかし半月も経つと、さすがに正気をとり戻す。
こんな大金、自分に扱いきれるのか、と――――
銀行で当選金が入金された通帳を受けとった時、一緒に『高額当選をした時の心得』みたいな冊子をもらった。そこに「仕事はやめないこと」と書かれていたので、辞表は出さずにいたが、ネットで調べたら、なまじ高額な当選金を得たばかりに人生や人間関係がめちゃくちゃになった例がぞろぞろ出てきた。
自分もいずれ、こうなるのか。
冊子には「人に話すな」と書かれていたが、一馬はすでに両親と兄姉に当選とその金額を伝えてしまっている。今は「そんなに出さなくていい」と遠慮してくれた彼らも、やがて「ちょっと立て替えて」「用立てて」と言い出すのか。一馬の当選金を当たり前のように頼るようになり、家族関係にひびが入るのか?
一馬自身、ささいなきっかけからずぶずぶ贅沢に溺れて、引き返せなくなるかもしれない。
そんな想像に苛まれるようになり、まともに眠ることもできなくなった。
(さっさと手放したい。十億なんて俺には無理だったんだ)
いっそ、どこかにまとめて寄付してしまおうか。
そんなことを考えていた矢先の、美園と寺島の一件だったのである。
一馬は「これだ」と思った。
話を聞いた限り、寺島は養ってくれる存在欲しさに美園に執着しているだけだ。であれば、法外な大金が手に入れば、ただの会社員にすぎない美園からは興味を失う可能性が高い。
予想は的中し、寺島は大喜びで美園から離れて経済を回し、一馬は「一度、札束で人を殴ってみたい」という、ひそかな願望まで叶えることができた。
今、一馬の手元に残ったのは一億三千万円と少し。
この先、子供ができて家族三人か四人になっても余裕のある暮らしができるし、遊んで暮らせる金額でないからこそ、冷静に仕事をつづけることもできる。
(これで充分だ)
一馬は海風を浴びながら、しみじみ思う。
「そろそろ、お昼ね。なにか食べない?」
新妻の提案に、一馬も「そうだな」と同意した。
新婚旅行二日目、とある新婚夫婦の会話だった。
沖縄の海はけっこう猫がいます。