『ドリンクミー』
いつの間にか、森の奥だと思っていた場所から細長い広間に来ていました。ランプが等間隔に並んで煌々と照らしています。
「さてアリス。ここから先はちょっと難しいけど、頑張って付いてきてね」
スペードの2は広間の一角にあるカーテンをそっと捲ると、満足げな表情を見せます。そこには四十センチぐらいの小さなドアがありました。
アリスは思います。おそらくここを抜けようとしているんだわ。でもわたしでさえ肩が引っ掛かって難しそうね。
スペードの2はカーテンを戻すと、近くにあるテーブルに近寄りました。そこには、奇妙な文字の書かれた二種類の飲食物が、それぞれ缶詰めの容器に入れられて幾つか置いてありました。
『ドリンクミー』と書かれた小瓶。
『イートミー』と書かれたクッキー。
どう見ても怪しげです。
スペードの2はそれを一つずつ手に取り、アリスに渡しながら言うには、
「小瓶の方を飲むと体を縮めることが出来るから、そうしたらさっきのドアを通り抜けよう。向こう側に出たら今度はクッキーを食べるんだ。それで元通りさ。いいかい? 順番を間違えたら大変なことになるからね。まずは小瓶だ」
絶対順守とばかりに、スペードの2は手に持った小瓶を掲げてみせました。
アリスは僅かに疑いの目で小瓶とクッキーを交互に見ましたが、これまでに考えてもみなかったことが起こってきたのですから、体の縮小拡大さえ、いとも簡単に出来るように思えてしまいます。
「心配かい? なら僕が先に実践してみせるよ」
そう言うとさっそく小瓶の蓋を開けて飲み干してしまいました。その瞬間、あっという間に彼の体は小さくなって、四十センチほどに収まりました。
スペードの2は何かを言っているようですが、小さくて聞こえません。でも予測は付きます。アリスも小瓶の蓋を開けると、くいっと傾けて飲み干しました。
不思議な感覚でした。体の異変もですが、一気にトランプ兵に急接近したような、ジェットコースターを急速に降りたような、そんな心地でした。手に持った空の小瓶もクッキーも、同様に縮小していました。
「よし、外に出るよ」
スペードの2はカーテンをよいしょと持ち上げると、アリスに先に進むよう促します。
アリスは丁度いいサイズになったドアをおもむろに開けてみると、そこは巨大な、色とりどりのお花が花壇に植えられた庭に出ました。そよ風が運んでくる鼻腔をくすぐる良い香りに、アリスはぱっと笑顔を咲かせます。
「さあ、クッキーを食べようか。少し離れた方がいいかもね」
スペードの2は距離を取るとクッキーを口に放り込んで、先ほどとは逆の現象で元の大きさに戻りました。アリスも倣います。
そうして無事にドアの反対側に移った二人は、並んでその庭を歩きました。花壇には数本のヒナギクやオニユリなどが咲いていて、アリスは気分よくそれらを眺めます。
「このお花たちも喋れたら楽しのにね」
「喋れるわよ」
不意にソプラノボイスがして、アリスは自分に都合のいい幻聴を聞いてしまったのかと一瞬思いました。それからスペードの2にジト目を向けて、
「ちょっと、盛岡さん。おふざけはやめてよね」
「僕は何も言っていないよ」
スペードの2は笑いを堪えるような顔つきで言いました。
「こっちよこっち」
今度は真後ろから聞こえます。つまり先ほどの声の主はともかく、今回は確実にスペードの2が女性の声真似をしたわけではないのでした。
アリスは緊張気味に振り向くと、一本のバラがこちらを向いて揺れていました。アリスは驚きすぎて、暫くの間声が出ませんでしたが、やがておそるおそる問いかけます。
「あなた達もお話が出来るの?」
「当然よ。なぜ話せないと思うのかしら?」
やや棘のある口調でバラは言いました。
「だって、植物ですもの……」
「動物が話せて植物が話せないという考えこそ、ナンセンスよ」
アリスは動物学も植物学も寡聞にして知らなかったので、何も言い返せません。
するとスペードの2が、
「そうだ、お花達に訊きたいことがある。今日、あの小さなドアを出入りしたり、この庭を通った生き物はいたかい?」
「いなかったわよね」「いなかったわ」口々にお花達は言いました。
「なら、昨日はどうだったか覚えてる?」
今日と同様に誰も通っていないという答えが返ってきました。
「そうか。どうもありがとう」
スペードの2は満足げにお礼を述べると、庭を抜けて先に行こうとします。
「ちょっと待って。せっかくお花さん達と喋れるんだから……こんな機会はないわ。もう少しここにいてはダメかしら」
振り向いたスペードの2は浮かない表情でした。
「アリス、僕達はハートのAを突き落とした犯人を捜しているんだ。地面から一歩も動くことの出来ないお花達は、当然犯人ではない。夢人であったとしてもね。そして犯人はこの場所を通ったわけでもなく、逆に昨日は違う行動を取っていた生き物も、お花達は見かけていないらしい。時間は限られているんだ。夢は延々と続くわけではないのだから……先を急ごう」
言い終わるや否や先を進むスペードの2には、やや焦りの様子が窺えました。
アリスは惜しみながら手を振って、お花達に別れを告げました。お花達は体をゆすってそれに答えてくれました。
踏み固められた土の道を辿って、歩みを進めていきます。晴れた空は心地よく、気温も湿度も申し分ありません。
「見張り塔の話なんだけれど」
アリスは、ふと思いついたことをスペードの2に問いました。
「もしかして犯人は、さっきの小瓶とクッキーを使ったんじゃないかしら」
「ふむ、どういう手順でやったか聞いていいかい?」
「小さくなって近づけば、見張りをしていたトランプ兵は気付けないわ。背後を取ったら体を元の大きさに戻してから、突き落とすの。身に着けたクッキーも同様に縮小したことから、突き落とすための武器を持っていったとしても問題ないわ。この方法なら槍の反撃を受けず、緊急の角笛を吹く暇もなくやられてしまうと思わない?」
「なるほどね。盲点だった。でもその考えには弱点があると思うんだ」
「弱点?」とアリスは問い返します。
「小さかったら、見張り塔の梯子を登れない」
「……あ」
と、彼の言う弱点に気付きましたが、すぐにアリスは考えを改めました。
「だとしたら、見張り塔の下に辿り着いたときに大きくなればいいじゃない。梯子は真下だからそっと登れば気付かれないわ。そして油断しているハートのAの背中をどんと押す――」
「まぁ、そうだよね」
どうやらスペードの2は、アリスのちょっとした間違いも承知の上で問答した様子でした。当然気分良く思わないアリスでしたが、スペードの2が訂正するように言うには、
「君の説を否定したいわけじゃないんだよ。トリックを暴けたとしても、犯人に繋がるとは限らない。そしてその方法が用いられたと仮定しても結局は、犯人の正体も、犯人がハートのAを狙った動機も分からないままだってことさ」
そう返されては、黙るしかないアリスでした。たくさんの生き物がいる不思議の国で、見張り塔の上にいるトランプ兵を狙った犯人の思惑は、いったいどのようなものだったのでしょう。